最近ブラジルでは、「日系文化」や「新日系文化」という言葉が邦字紙を中心に使われだした。この言葉は、「『日本文化』をベースにブラジル風にアレンジした文化」という意味で使われているが、「日本の日本文化」から、自らの「日本文化」を「日系文化」として自覚的に差異化し、多文化的な「ブラジル文化」を構成する一要素として位置付ける姿勢を示している。
現在、その日系文化プレゼンスでもっとも熱いと思われるエリアが、北パラナ(パラナ州北部)である。戦前から多くの日系人が入植し土地を開拓してきた地域であり、戦後は政界、財界、法曹界、ビジネスなどさまざまな方面に進出し、めざましい活躍をするようになっている。この北パラナの中心都市ロンドリーナ(Londrina=人口約50万)は、その名が示すとおり、戦前イギリスの土地会社によって開発され、ロンドンにちなんでその名がつけられた(地図1参照)。日系移民の入植も戦前の1930年からはじまっており、現在はすでに三世、四世の世代が台頭している。また、同市は兵庫県西宮市と姉妹都市であり、強力なインテグレーションを持った日系コミュニティが存在する。
さて、このロンドリーナ発の日系文化で、もっとも注目されているのが「マツリダンス」である。マツリダンスは、毎年9月に行なわれるロンドリーナ祭りで踊られる創作盆踊りで、15年ほど前に「ボンオドリ・ノーヴォ」(新しい盆踊り)としてこの地域ではじまったという。盆踊りを基礎にした振り付けにポップスやストリードダンスの動きを加え、日本のポップミュージック「松本ぼんぼん」、「島唄」、「ギザギザハートの子守唄」、「ランナー」など、ジャンルもテンポも異なる曲をアレンジしているのが特徴だ。生演奏をバックに男女の歌い手が歌い、お神輿を据え付けた舞台の上では祭り太鼓と踊り部隊が盛り上げる。
ロンドリーナ祭りは2003年からはじまった催しで、毎年9月、市内のニシノミヤ公園で開催されている。主催団体は後述するように、日系ミュージシャン、ミリアン・ミチコ城間率いるグルーポ・サンセイだ。1万9000平方メートルの会場には、焼きそば、巻き寿司など日本食品や飲み物、民芸品を売る屋台、子供の遊び場が並び、週末の団らんを楽しむ家族で賑わう。2007年は連日の好天に恵まれ、四日間で15万人が会場を訪れたという。ステージではカラオケショーや太鼓、琉球舞踊、ヨサコイ・ソーラン、この地方の伝統舞踊などが次々に披露され、特設会場の流しそうめんが話題を呼んだ。そして、この催しの目玉として毎晩踊られるのがマツリダンスである。
マツリダンスの魅力と創作の経緯について、グルーポ・サンセイのリーダー、ミチコ城間さんとルイス城間さん夫妻、創立メンバーの一人クラウジオ古川さんにお話を聞いた。1988年、当時カラオケ教室を開いていたミチコさんは、日本の歌を日本のメロディーに合わせて歌うことに今ひとつ物足りなさを感じていた。この年はブラジル日本移民80周年であり、サンパウロを中心に、ブラジル各地で80周年の祝賀イヴェントが企画されていた。もちろん日系人の多いロンドリーナでも多くのイヴェントが企画されていたが、この頃日本人会の役員ほとんどが一世。彼らのイニシアティブのもとに企画が進められ、ミチコさんのような若い世代の意見はなかなか取り上げてもらえなかった。
「一世は、あんたたちの日本語はおかしいとか、もっと日本人としてのプライドを持ちなさいとか言うけれど、私たちはブラジル生まれのブラジル人なんだから…おじいちゃんやおばあちゃんのやり方があっていい。でも、私たちのやり方もあっていいはず。『日本文化』って、一つじゃないはずだもの」と日本文化の多様性を強調する。とにかく、ミチコさんたちは、一世つまり自分たちの祖父母や父母の世代とは別のやり方で、80周年のイベントを企画したかったという。そういう発想から、1988年にミチコさんが指導していたカラオケ教室の若者たちを中心に結成されたのがグルーポ・サンセイだった。このグループは、1994年に「文化・福祉協会グルーポ・サンセイ」(Grupo Sansey - Cultural e Beneficente)として法人化。2003年には、はじめてロンドリーナ祭りを開催し、これを成功にみちびいた。一晩1万2000人がいっせいにマツリダンスを踊ったこの時の感動は忘れられないと三人は口をそろえて言う。
ジャポネースというアイデンティティはあるけれど、『一世』とは違う主張をしたかった」というミチコさん。また、「このお祭りをやることで自分たち 日系人が日本文化を伝承し、おじいちゃん、おばあちゃんたちが植えてくれた種がちゃんと育っているということを伝えたい。そして、私たちの日本文化を非日系のブラジル人たちにも紹介し、新しいブラジル文化を創造していきたい」と語る。グルーポ・サンセイは新しい世代を意味する「三世」(サンセイ)と肯定を意味する「賛成」(サンセイ)ひっかけた言葉だという。
2006年11月、マツリダンスはサンパウロに進出した。若手日系人が中心に日本文化を広く紹介する「Japan Experience-日本文化体験06-」というイヴェントで、ロンドリーナからやってきたグルーポ・サンセイのメンバーと会場につめかけた観客たちが一体化し、マツリダンスを踊ったのだ。これはマツリダンスが北パラナというローカルな日系文化プレゼンスにとどまらなくなったことを意味する。
2008年は、笠戸丸による第一回ブラジル日本人移民から100周年。今、日本人が移植した「日本文化」は、ブラジル社会にあって「日系文化」として、新たな意味と位置付けをもって一つのムーヴメントとして認知されつつあるのである。それは、ミチコさんの言葉にもあったように、ブラジルの多文化的状況の中でダイナミックに創造されていく「新しいブラジル文化」を構成する魅力的なファクターとしての位置付けでもある。そういった創造活動の現在進行形を、マツリダンスに見ることができると思う。
2007年のロンドリーナ祭りに話を戻そう。9月9日の最終日、午後8時に始まったマツリダンスで会場の盛り上がりは最高潮に達し、1万5000人がいっせいに踊った。新しい曲や振り付けの発表があると、あちこちで歓声が上がる。踊るのは若者ばかりでなく、中高年の女性グループも目立つ。日系、非日系、肌の色にかかわりなく汗を流してマツリダンスに夢中になっている。地球の反対側のブラジルの、しかも日本の人びとがほとんどだれも知らないような地方都市で、日系人グループによってこんなマルチエスニックな熱狂空間が演出されていることに、筆者はただ驚くばかりだった。
参考文献
Grupo Sansey(グルーポ・サンセイ): http://www.gruposansey.org.br
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