根川 幸男

(ねがわ・さちお)

1963年大阪府生まれ。サンパウロ大学哲学・文学・人間科学部大学院修了。博士(学術)(総合研究大学院大学)。移植民史・海事史・文化研究専攻。ブラジリア大学文学部准教授を経て、現在、国際日本文化研究センター特定研究員。同志社大学、滋賀県立大学などで兼任講師。主要著書:『「海」復刻版』1〜14巻(柏書房、2018、監修・解説)、『ブラジル日系移民の教育史』(みすず書房,2016)、『越境と連動の日系移民教育史——複数文化体験の視座』(ミネルヴァ書房、2016。井上章一との共編著)、Cinquentenario da Presenca Nipo-Brasileira em Brasilia.(FEANBRA、2008、共著)

(2023年1月 更新)

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海を渡った日本の教育

第15回 おわりに

約一年半の在外研究期間を日本で過ごし、久しぶりにブラジルに戻ってきた。1996年、筆者がブラジル渡航後に身を寄せた古巣であるサンパウロ人文科学研究所(通称「人文研」)で、この稿を起こしている。「ブラジル最古の日系教育機関」と言われるのはサンパウロ市の大正小学校だが、その校舎の跡地に現在のブラジル日本文化協会ビルが建ち、わが人文研は、そのビルの三階にある。 今回は一ヶ月あまりの調査で、サンパウロ市から、州内陸部のトゥッパン、アラサツーバ、アリアンサ、プレジデンテ・プルデンテ、アルバレス・マシャード、州境を越えて北パラナのロンドリーナを周り、サンパウロに戻ってきた。ロンドリーナからサンパウロのコンゴーニアス空港までは飛行機で1時間足らず。ロンドリーナ開発の功労者氏原彦馬(うじはら・ひこま)氏が1929年にはじめてこの地域に向かった時、鉄道は州境近くのカンバラ止まりで、「目につく物は山の鳥たちと、猿の群れ位」という大森林の中をサンパウロから三日がかりでたどり着いたそうだ(沼田, 2008, p.6)。氏原氏は、英国系の北パラナ土地会社日本人部支配人となり、多くの日本人移民をこの豊穣の地に導いた(写真15-1)。 ぬかりなく移民最初に学校立て(沼田信一) この句を詠んだ沼田氏は1932年に14歳で家族とともにブラジルに来た移民で、ロンドリーナ草分けの一人。この頃には日系植民地はサン…

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番外編1-フィリピン・ダバオ

「ミンダナオの山の中でね、いきなりその人にばったり出会って、「私はアイノコです」なんて日本語で言うんだもん。びっくりしちゃったよ」 フィリピン・ダバオ在住の日本人実業家のYA氏は、Aさんという一人のフィリピン日系人との突然の出会いをそう語る。当時はジャーナリストで、ミンダナオ島山岳部に出没する新人民軍(NPA)などゲリラの活動を追っていた。YA氏は、その時はじめてフィリピン日系人なるものの存在を知ったという。 ダバオは、ミンダナオ島にあるフィリピン共和国第三の都市。フィリピン南部の政治・経済の中心であり、周辺のリゾート地へ向かう観光基地でもある。20世紀のはじめ、太田恭三郎に率いられた日本人移民労働者たちがここに入り、アバカ(マニラ麻)栽培を発展させた。太平洋戦争直前の1940年には、在留日本人は約2万人。外南洋最大の日系社会を形成し、13の日系小学校が存在していたとされる(天野, 1990, p.64; 小島,1999, p.181)。ダバオ日本人移民とその子どもたちの大戦をはさんだ想像を絶する苦難の物語は、多くのドキュメンタリーに描かれている1。戦後日本に引き揚げた移民たちのナマの証言は、『金武町史』や『宜野座村誌』など沖縄県の市町村史に採録されており、そちらを参照されたい。 今年2011年2月、筆者はダバオを訪れた。今回は、「海を渡った日本の教育」番外編として、ブラジル…

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第14回 洋上小学校

戦前期から戦後期にかけて、海に囲まれた日本から外国への移民は、ほとんどすべてが海上輸送に拠っていた。移民船は海外渡航の主役であり、移民の誰もが船内生活を経験したものだった。 「洋上小学校」(船内小学校)は、移民船内で開校された小学校である。ブラジル移民は、家族移住が主であったので、主婦である女性や子どもたちが多く含まれ、航海中の賑わいや華やぎをあたえていた。洋上小学校は、小学校学齢期の子どもたちを対象とするものであり、航海日数のとりわけ長かったブラジル移民にもっとも多くの例が見られた。日本からブラジル、ブラジルから日本という、両国を往還した子どもたちの教育機会や日本的教育の連続性を考える場合、洋上小学校の存在は軽く扱うことはできない。 山田廸生氏の『船にみる日本人移民史-笠戸丸からクルーズ客船へ-』(1998)は、移民船から移民史をとらえ直した好著だが、移民船らぷらた丸の第23次航(1936)で開校された「らぷらた尋常小学校」を例に、洋上小学校について次のように紹介している。 「らぷらた丸」第二三次航では、高等科併設の「らぷらた尋常小学校」の開校式が、神戸を出て四日目に特三食堂1で行なわれている。開校式は開式の辞に始まり、『君が代』斉唱、宮城・伊勢神宮遥拝、校長訓示、教師紹介、来賓祝辞、閉式の辞と続く立派なもの。来賓には田崎・上塚の両名士、それに舟の事務長が招かれた。現…

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第13回 御真影・教育勅語・修身

戦前ブラジルの日系移民子弟教育の理念は、臣民教育、忠君愛国的教育であったとよく言われる1。では、臣民教育、忠君愛国的教育とはいかなるものであろうか。それは、御真影をいただき、教育勅語の精神を体得する「臣民」、すなわち天皇に対する忠誠心と愛国心を持つ「真の日本人」になることであったといえよう。 サンパウロの日本移民史料館に復元されている移民の掘建て家屋内には、天皇皇后両陛下の御真影が飾られ、異国に来ていかに苦労しようとも皇室への尊崇を忘れない日本人の健気さや忠君愛国の精神が表象されている。しかし、こうした御真影がどのようにブラジルに渡り、日系移民一般に普及したのかは、実はそれほど明らかではない。今回は、御真影や教育勅語、修身教育のブラジルへの移植・普及をめぐって、こうした日系教育の内実の一端に迫りたい。 戦前期ブラジルの日系植民地における学校の役割は、たとえば、次のように描かれている。 植民地における天皇崇拝の中心は「日本学校」であった。戦後になって「日本語学校」という呼称が一般化したが、戦前には「ニッポンガッコウ」と呼ばれた。(中略)日本学校は日本人会によって運営され、そこには必ず「御真影」が安置され、教育勅語が備えられていた。日本学校は子弟教育の場であると同時に、日本人会の集会場であり、青年団・処女会の活動の中心であり、さらには産業組合の事務所であったりした。新年の四方拝、紀…

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第12回 日系実業学校

ブラジルには実にさまざまな日系教育機関が存在したが、1930年代に農業学校や商業学校などいくつかの実業学校が設立されたことが確認できる。以前紹介したものの中では、日伯実科女学校やサンパウロ裁縫女学院など(本連載第5~6回参照)のほかに、レジストロ補修学校(本連載第9回参照)がそれに当たる。同校は別名「農業補修学校」と呼ばれ、日本語、ブラジル地理などの一般教養とともに農業技術など実業科目があった。サンパウロ州内陸部では、1938年には、ソロカバナ鉄道沿線のプルジデンテ・プルデンテ日本人会が、従来の小学校に加えて、プルジデンテ・プルデンテ商業学校を設立している(日本移民80年史編纂委員会, 1991, p.119)。 ブラジル移民が国策化していく時期1930年代には、アマゾン地域でも日本人の入植がはじまる。1930年に上塚司によって東京で設立された国士舘高等拓植学校(1932年に神奈川県生田村に移転)は、アマゾン河中流域パリンチンスにあったアマゾニア研究所に学生を送っていた。崎山比佐衛が1918年に東京世田谷に設立した海外植民学校は、1932年に同じく中流域のマウエスに海外植民学校分校を創立した。これらはアマゾン地域の開拓実務を学ぶ実業学校として機能した。 サンパウロ市ガルヴォン・ブエノ通りにあった聖州義塾(本連載第4回参照)は剣道を正課としていたことで有名であったが、その剣道の相手…

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