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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2024/7/2/meet-kenyon-mayeda/

 ケニオン・マエダ:世代から世代へ、マルチカルチャーを受け継ぐ

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ケニオン・マエダは、新たに全米日系人博物館の最高インパクト責任者(Chief Impact Officer)に就任した。博物館の日々の運営を含むさまざまな業務に携わることになった。思い出すのは、父親のマーク・マエダとかつて訪れたマンザナー強制収容所への旅だ。それは国定史跡になる前のことで、割れた食器やごみに覆われた区域もあった。子供の頃マークがマンザナーを訪れると、射撃練習で出た散弾銃の空薬莢や弾薬ケースが残されていたという。マンザナーに収容されていた頃はまだ幼児だったにもかかわらず、マークはよくこう言っていた。「私はここで生まれた。この場所、この土地に思い入れがある」と。

サンゴロウ・マエダ(前列左から2人目)、マンザナー強制収容所にて、1943年。

父親はマンザナーにまつわる家族の逸話を進んで語ろうとはしなかった。ケニオンは父に何度も質問を投げかけ、そこで得られた情報を何とかつなぎ合わせた。妻との間に2歳と5歳になる2人の娘がいるケニオンは、父親になってみて、初めてあの荒れ果てた過酷な環境での子育てがどれだけ大変なことだったか想像することができた。娘たちが成長した暁には、マンザナーへ連れていこうと考えている。

日本でのサンゴロウ・マエダ(前列左)、1906年。

ケニオンはアジア系がミックスした血筋で、日系アメリカ人の父親と中国系アメリカ人の母親の間に生まれ、姉が2人いる。父方の祖父、サンゴロウ・マエダは1915年にアメリカへ移住した日本人で、祖母のエミリー・マエダはオークランドで生まれ育った日系人だ。祖父母はサンフランシスコ・ベイエリアからマンザナーへ強制移住させられた。戦前カリフォルニア州フローリンの農場で働いていたサンゴロウは、マンザナーから解放されるとき、年に一度は当地に戻って犠牲者を追悼してほしいと聖職者に頼まれた。亡くなるまで、彼は毎年その約束を果たした。

マンザナーを出たマエダ家は、幼い娘と乳幼児の息子マークの2人を連れてロサンゼルスに引っ越した。一家は家賃が払えるところならどこにでも住み、民家の車庫で寝泊まりしたこともあった。家族は増え、娘2人と息子3人の5人の子宝に恵まれた。サンゴロウはアーティストのチャールズ&レイ・イームズが所有するカリフォルニア州ベニスのイームズスタジオで庭師として働いた。チャールズとレイは夫婦で、現代的な建築物や家具デザインのパイオニアだった。中でもイームズチェアは20世紀アメリカモダニズムのアイコン的な存在である。エミリーは夫妻の家政婦を務め、後に料理人として働いた。レイ・イームズが他界したあと、サンゴロウとエミリーには形見として1脚のイームズチェアが贈られた。

サンゴロウ、エミリー、フミオ、マーク・マエダ、1945年。

2人はやがてお金を貯めて、ベニスの労働者階級が暮らす地区に家を買った。周囲には、近隣の海辺のリゾートやホテルで働く従業員たちが住んでいた。主にアフリカ系アメリカ人の多いエリアで、日系人はほとんどいなかった。マエダ家はガーデナ仏教会に通い、熱心に活動した。

祖父サンゴロウは、ケニオンが生まれる前にすでに亡くなっており、父親の話を通して祖父を知った。祖母エミリーはアルツハイマー病を発症したが、ケニオンは祖母と過ごした幼い日々を覚えている。

ケニオンはこう言った。「あの場所(マンザナー)に私のルーツがあるということは、私がこれまでの人生で得た恩恵は、ひとえに祖父母のおかげだということを意味しています。マンザナーは彼らの記憶に染みついた場所であるだけでなく、家族を養うための場所だったからこそ、祖父母は責任を果たし、真面目に働き、コミュニティに尽くしてきました。そして、あの場所があったからこそ、父は私に命を授けることができました。祖父は私が生まれる前に他界しましたが、私にはそのつながりを実感することができます」。

ケニオンの中国系の祖父ジョージ・T・M・チンは1914年、バークレーに生まれた。バークレーで政治学を学ぶ学生だったジョージの父親は、のちに中国に帰国し、ジョージはそこで育てられた。ジョージは青年期にアメリカへ戻ると、1937~1939年にかけてスタンフォード大学に通い、銀行経営に主眼を置いた経済学で修士号を取得。ツイ・リン・チンと結婚し、第二次世界大戦後の香港で銀行家となった。1951年、一家は共産主義から逃れるようにしてロサンゼルスへ移住した。当初、家族を支えるために、ジョージは3つの仕事を掛け持ちした。

ジョージ・チンは1939年にスタンフォード大学で経済学の修士号を取得。

ジョージはのちに、1962年にロサンゼルスで開業したキャセイ銀行の創業者の1人となり、初代社長兼CEOを務めた。南カリフォルニアで初めての中国系アメリカ人が所有、経営する銀行だった。娘のデボラ・チンによれば、中国系移民一世の多くが主要銀行でローンを断られていることに、ジョージは気づいていたという。デボラはこう言った。「そのことが、商売を始めるにも、家庭を持つにも、車を買うにも、さらには子供の進学先にさえ影響しました。父はその点で力になりたかったのです」

ケニオンの母デボラ・チンは3姉妹の末っ子だった。ケニオンは子供の頃、中国系の祖父母がよくロサンゼルスのチャイナタウンへ出掛ける様子を見て育った。母デボラはチャイナタウン・サービスセンターの専務理事でもあった。ケニオンの父親は、コリアタウン・ユース・アンド・コミュニティ・センター(KYCC)で指導的な役割を務めていたため、コリアタウンでも多くの時間を過ごした。両親はコミュニティと他者への奉仕をことのほか重視していた。ケニオンはKYCCの学生グループに加わった。韓国人ではないのは自分だけだったにもかかわらず、カリフォルニア州の韓国系学生連合(Korean Coalition of Students)の会長になった。そうやって他のアジア人コミュニティにも居場所を見つけた。

デボラ・チンはケニオンが若い頃、チャイナタウン・サービス・センターの事務局長を務めていた。

ケニオンには、家族が熱心に活動していたベニス仏教会での餅つき、お盆、寄付活動などのイベントにも懐かしい思い出がある。おいしい食べ物、走り回る子供たち、友人との交流、おじやおばや家族と共に過ごす楽しさが記憶に残っている。

文化が違うため、両親は食べ物について妥協し合わなければならなかった。「多文化の家庭ではあることだと思うのですが、少なくとも私の家では、中国ではロンググレインライス(長粒米)を食べますが、日系の父はショートグレインライス(短粒米)を食べて育ったので、どちらかに決める必要がありました」とケニオンは語った。結局、両親は短粒米を食べることに決め、和食と中華料理の両方が食卓に並んだ。母親がベジタリアンあるいはヴィーガンだったため、野菜をたくさん食べて育った。さらに、ロサンゼルスには豊かな食文化があり、アメリカ、メキシコ、韓国やその他のエスニック料理を食べる機会もあった。

ケニオンと父のマーク

ミドルスクール時代に、ケニオンは姉妹都市交流で大阪府の貝塚市を訪れた。日系アメリカ人として伝統的な日本の家庭に滞在したが、「カルチャーショック」を経験した。会話はその家の娘と英語でしかできなかった。その後、カルバーシティ高校を卒業。2003~2006年にかけてサンフランシスコ大学に通い、経営管理学を専攻した。

2004年には全米日系人博物館でサマーインターンシップに参加し、他のジャパンタウンのリーダーたちと出会った。ジョン・オオサキ専務理事を介して日系ユース評議会(Japanese Community Youth Council: JCYC)のことも知った。JCYCはサンフランシスコの非営利団体で、子供や若者、家族を支援している。ケニオンはこの団体で、プレスクールの先生やサマーキャンプのディレクターを務めるなど、コミュニティのプログラムに尽力した。

全米日系人博物館で新しく最高インパクト責任者を務めることになったケニオン・マエダは、2004年、博物館でサマーインターンとして働いた。

2012年には、米日カウンシル(U.S.-Japan Council)の新生リーダープログラム(Emerging Leaders Program: ELP)を修了。現在は米日カウンシルの南カリフォルニア地域代表を務める。シアトルのキャセイ銀行で地区責任者(Regional Operation Officer)として勤めるかたわら、移民コミュニティのリーダーたちとネットワークを築き、地元の組織に資金を提供する関係を培った。

多文化共存とコミュニティ主導を掲げる広告代理店TDW+Coと協力した仕事は、ケニオン自身が「非常に意義深い期間」と評している。その1つが、アジア系アメリカ人コミュニティに向けた2020年アメリカ国勢調査キャンペーンだ。愛らしいアジア系の少女が父親に国勢調査フォームへの記入を勧める広告を、アジアの異なる6原語で制作した。TDW+Coは名前の重要性を訴えるP&G社のキャンペーンも手掛けた。帰属意識の重要性を強調し、アジア人に対する差別や暴力といった問題を提起するものだ。このキャンペーンにはミシェル・ヨー、ダニエル・デイ・キムといったセレブも協力した。

ケニオンは、次世代の日系アメリカ人たちが全米日系人博物館につながりを感じてもらいたいと願っている。

ケニオンが今回博物館で仕事を得た時、両親は「大喜び」した。「両親はいつでも私を応援してくれます。非営利組織の分野においては、素晴らしいアドバイスもくれます」とケニオンは言う。実業界から非営利組織へ戻るのは、初心に帰る心境だという。

「博物館はすでに変革期にあり、主要な展示の改修や、博物館自体の改装を行っています。この施設を未来の世代のために整えることは、本物の投資です」と話すケニオンは、成長した我が子にとっても意義深い施設になることを望んでいる。「多文化で多人種の日系アメリカ人コミュニティを反映するため、博物館の収蔵品は今後どのようにかわっていくのだろうか?」

そして続けた。「博物館は、私がこの世からいなくなったあとも存在する場所だと思っています。私の子供たちが将来ここへ来て、この場所へ絆を感じてくれることを願っています」。博物館がオープンした時、ケニオンの両親はケニオンと姉の名前をチルドレンズ・コートヤードに刻印した。そして今、ケニオンの子供たちの名前もそこに刻まれている。

 

© 2024 Edna Horiuchi

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執筆者について

ロサンゼルスの元教員。ロサンゼルス南部で行われているフローレンス・ニシダの農園ワークショップにボランティアとして参加し、洗心寺でも活動している。趣味は読書、太極拳、オペラ鑑賞。

(2023年6月 更新)

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