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ブルース・ハレルさん —「人種は関係ない。原動力は愛」- その1

ブルース・ハレルさん —「人種は関係ない。原動力は愛」- その1
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シアトル市長選に立候補し、8月3日の予備選を勝ち抜き、11月2日(火)に行われる本選でロレーナ・ゴンザレス現市議会議長と対決するブルース・ハレルさん。当選すると、アフリカ系としては2人目、アジア系としては初のシアトル市長が誕生します。人生の大半をシアトルで過ごし、弁護士およびシアトル市議会議員として活躍してきたブルースさんは、「シアトルに育ててもらった」と自認しています。自身のルーツや幼少期の思い出と共に、市政への意気込みと抱負を語ってもらいました。

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日系の母とアフリカ系の父の間に生まれて

ブルース・ハレルさんの祖母、タメノ・ハブ・コバタさんは大阪生まれ。夫のテイジ・ハブさんと1900年代初頭に日本からシアトルへ渡り、6人の子ども(ジャックさん、キミさん、ジョンさん、ユキさん、カコさん、マリーさん)に恵まれる。

しかし、テイジさんは、若くして髄膜炎で命を落とす。死の床で、残される家族の世話を親友のジョン・コバタさんに託した。遺言に従って一家の面倒を献身的に見たジョンさんは、やがて未亡人だったタメノさんと入籍。そのふたりの間で5番目の末っ子として生まれたのが、ブルースさんの母となるローズさんだ。同じ父を持つ兄、姉にはジョージさん、ルイーズさん、フランクさん、ジョージさんがいる(いちばん上の兄、ジョージさんは早くに亡くなった)。

一家は日本町に引っ越して、小さな食料品店を営んでいた。後に店は地元最大の花屋、チェリー・ランド・フローリストとして成功を収める。ローズという名前も、ジョンさんが花にちなんで付けたものだ。

母、ローズさんの両親が日本町で営んでいたチェリー・ランド・フローリストが最盛期を迎えていた1940年頃の様子。ローズさんの姉、ルイーズ・サクマさんは、戦後にセントラル・ディストリクトでチェリー・ランド2号店を開き、その花屋を長年経営した。

第二次世界大戦が始まると、ローズさんを含め親戚一同、アイダホ州のミニドカ収容所に送られた。戦中、アメリカに住む日系人は敵性外国人とみなされ、アメリカ国籍を持つ2世を含め、自宅のある地域から強制退去させられ、土地や財産を失った。ローズさんの家族もそれは同じだった。

結婚してシンボ姓となった次女のカコさんは、戦争が終わると夫婦で同じS. Jackson St.沿いに花屋を開いた。ガーランド・フローリストと聞けば、古くからシアトルに住む人なら、思い当たるかもしれない。また、長男のジャックさんは自動車修理工場を始め、息子が引き継いだ。現在もアート・アンド・ゴードン・ハブとして営業中だ。

収容所からシアトルに戻ったローズさんはガーフィールド高校に通い、そこでブルースさんの父親となるクレイトン・ハレルさんと出会う。ハレル家はもともとルイジアナ州ニューオーリンズの出身だが、シアトルに居を移していた。クレイトンさんの父、ウィリアムさんは大工として生計を立て、3人の息子のうち2人をワシントン大学に通わせた。クレイトンさんの母のリリアンさんは、ファーストヒルにあったカブリーニ病院の新生児室に看護師として勤務していた。

ブルースさんの両親は意外な人物と高校の同級生だった。音楽界の大御所、クインシー・ジョーンズ氏だ。父、クレイトンさんはバンピー・ブラックウェルズ・バンドとして一緒にバンド活動を行い、シアトル界隈ではかなり名の知れた存在であったという。

クレイトンさんとローズさんは1951年にガーフィールド高校を卒業すると、その2年後に結婚する。日系とアフリカ系という人種を超えた結婚を選択した若いふたりは、常に世間から好奇の視線を向けられた。当時のことをブルースさんはこう話す。「家族でダウンタウンを歩くと、人々は私の両親に目をやり、そして兄と私をじろじろと見るのです。まるで別の惑星から来たかのように」。それでもブルースさんの両親は互いを思いやる気持ちを決して失わず、文字通り「死がふたりを分かつまで」、50年にわたって添い遂げた。

新婚当初のブルースさんの両親。1953年頃


葛藤を抱えた青年時代

幼少期に父のクレイトンさん、母のローズさん、兄のクレイトン・ジュニアさんと。1963年頃

日系とアフリカ系の血が流れるブルースさんは、幼い頃から「自分はどの人種グループに属するのだろうか」と自問していたという。書類提出の際など人種のチェック欄があると2つをマークしなければならず、人種について討論する場では自分の意見を発表するのをためらった。自分の境遇は特殊だと自覚していたからだ。

母、ローズさんの両親が日本町で営んでいたチェリー・ランド・フローリストが最盛期を迎えていた1940年頃の様子。ローズさんの姉、ルイーズ・サクマさんは、戦後にセントラル・ディストリクトでチェリー・ランド2号店を開き、その花屋を長年経営した。

ガーフィールド高校卒業式にて。祖母のリリアン・ハレルさんと共に。1976年撮影

しかし、ワシントン大学に入ると環境は一変。自分と同じように異なる人種をルーツに持つ人たちとの出会いが急増したのだ。ほどなくして友情を築くのに人種は関係ないとブルースさんは気付く。友人たちは誰しも、人種に関係なくブルースさんの人柄を慕い、尊重してくれた。

「人の活動の原動力となるのは『愛』なのだと気付きました。私はいつも愛に囲まれていました。誰かに心ないことを言われると、これまでの人生で私を支え、元気付けてくれた家族や友人たちのことを思い出します。彼らとの出会いは、今でも私の心の糧です。そこに人種は関係ありません」

ブルースさんは子どもの頃、ひどいあだ名で呼ばれ、よく喧嘩もしたと言う。そんなブルースさんの心のよりどころは両親からの愛情だった。

「兄と私に惜しみなく愛情を注ぎ、自信を与え、混血に向けられる無知や偏見に立ち向かう強い心を育ててくれた。現在もアジア系住民に対するヘイトクライムがあとを絶たず、アジア系、アフリカ系、先住民、有色人種(BIPOC)は不当な暴力の恐怖にさらされています。私の最後の砦となるのは愛です。それは両親が亡くなった今でも同じです」

教育熱心な母親の影響

2012年に母のローズさんと。父のクレイトンさんは2003年にがんで他界。ローズさんは2014年、心不全により亡くなっている

母、ローズさんは1933年にシアトルで生まれた。セントラル・ディストリクトのベイリー・ガザート小学校、ワシントン中学校、そしてガーフィールド高校と進み、ワシントン大学で会計学のクラスをいくつか履修した。「母親であり、職業人でもありました」とブルースさんは振り返る。

ローズさんはイースト・マディソンYMCAで秘書として働いた後、現在でも発行されているアフリカ系アメリカ人向けの地元紙『ザ・ファクト』編集部を経て、アフリカ系の人権活動家でシアトル市全体の予算管理や市営公園の運営などを任されていたウォルター・ハンドリー氏の下で「シアトル・モデル・シティー」事業を担当するビジネス・マネジャーを務めた。その後はシアトル公共図書館で財務部長として長年働いた。

ブルースさんの揺るぎない自信、身体能力の高さ、強靭な精神力は母親譲りだ。

「母は真のスーパーウーマン。学ぶこと、物事に興味を持つこと、読書の大切さも母から教わりました。子どもの頃、夕食を終えて食器を手洗いする母に本を朗読するのが私の役目で、毎晩、毎晩、何年も続けました。どれだけ多くの本を読んだことでしょう」

当時、ローズさんは教会の日曜学校で子どもたちを教えており、PTA活動にも精力的に関わっていたが、ブルースさんの出場する試合には欠かさず応援に駆け付けた。ある日、こんな出来事があった。高校生だったブルースさんは、レスリングのトーナメント試合に出場。1回戦に勝ったブルースさんを見届けて、ローズさんは車に戻った。ブルースさんを待つこと4時間。その後交わされた会話が、いかにもおおらかなローズさんらしい。

「ずいぶん時間がかかったわね」

「えっ。試合が終わってすぐに飛んできたよ」

「でも試合が終わったのは4時間前じゃない」

「母さんったら。僕はあの後、もう2試合あったんだよ。トーナメント戦だもの。両方とも勝ったのに、見ていなかったの?」

「見ていなかったわ。本を読んでいたの」

ふたりはハンバーガー屋に立ち寄り、笑いながらバーガーを頬張ったそうだ。「母は私の元気の源でした」。ブルースさんにとって、忘れ難いエピソードだ。

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*本稿は、『北米報知』7月9日号に掲載された英語記事を一部抜粋、意訳したもので、2021年8月13日に「Soy Source」へ掲載されたものを許可をもって転載しています。写真は、ブルース・ハレルさん提供。

 

© 2021 Elaine Ikoma Ko / The North American Post

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