ブラジル移民は主に家族単位で行われていたが、単身でブラジルへ渡った人もいた。敗戦後、多くの復員兵や引揚者が帰国した。国内は敗戦による混乱が続いており、彼らを受け入れる力はなかった。失業者があふれ、深刻な食料不足の状態だった。その打開策として再び海外移住に期待が集まっていった。1953年、戦後初めてのブラジル移民がリオデジャネイロに到着すると、次々と海を渡る人が出始めた。失業問題に食料不足、そして農家の二男・三男対策の一助となることを期待されて始まった「コチア青年移民」「産業開発青年隊」は共に独身青年による単身移住という形態をとっていた。肥後英樹さんはそのコチア青年として奄美からブラジルへ渡った一人だ。
奄美市笠利出身の肥後英樹さんは昭和15(1940)年、長男として生まれる。長男だから後を継がせようと父は農林高校に入れた。在学中から外国に憧れを持ち、ブラジル読本などを取り寄せて読んでいた。肥後さんは「奄美の土地を継いだって何もできない」と、海外で自分の思う農業に挑戦したいと思っていた。
高校卒業時、笠利の郵便局長をしていた叔父から「卒業後は局員にしようと思っている」と言われた。とにかく外国に行きたい一心だった肥後さんは「俺は赤い自転車に乗って人のラブレター運びは嫌だ」と叔父に伝えた。叔父は「お前は勉強したんだから、それは(外国に)出たいだろう。行きな、行きな」と背中を押してくれた。
卒業後、鹿児島の拓殖講習所に入所。3カ月が過ぎた頃、コチア青年の募集が始まった。早速応募し、茨城の訓練所へ移ることになった。奄美からは肥後さん含め5人が茨城の訓練所に入った。鹿児島の講習所の所長も一緒に来てくれた。心強かった。訓練所には日本全国から海外飛雄を夢見る青年たちが集まって来ていた。
ほとんどが大卒者の中、奄美の田舎から、しかも高卒だった肥後さんは少し気後れしていた。しかし、奄美から一緒に入所した仲間たちはそれぞれが走りや相撲などの場面で活躍し、肥後さん自身も試験で満点を取るなどして自信がついて行った。奄美出身の5人の活躍がめざましいので、訓練所ではいつも「奄美、奄美」と目立っていた。「これはもうどこにも負けん」と思うようになっていた。
「コチア青年移民」は訓練終了後ブラジルへと渡り、到着後は「コチア産業組合」の組合員のもとで4年間雇用され、農業を学んだ後に独立することが前提であった。1955年から67年までに約2599人がコチア青年移民としてブラジルに渡っている。
肥後さんはサンパウロ市内の養鶏場に就労した。4年間の「義務農年」を終えると土地を借りて野菜作りをした。そこで3年ほど大陸農業の修行をした。資金のめどがつき独立。野菜作りを3年、それから花卉(かき)栽培に変え4年たった頃、ようやく経済基盤が整った。最初の雇用主の娘と結婚。夫婦2人で花卉栽培に精を出した。
農業が軌道に乗った頃、友人に頼まれて仕出しを始めた。肥後さんの人柄もあって次から次へと仕出しの注文が来た。平日は花卉栽培、休日は仕出し屋と休みなく働いた。数年前から仕出し屋は妻と娘夫婦に任せ、長い間一緒に仕事をしているブラジル人と2人で、自分の思うようにやりたかった花卉栽培に精を出している。
* 本稿は、『南海日日新聞』(2018年5月10日)からの転載です。
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