5月の最終月曜日、メモリアルデー(戦没将兵記念日)は毎年、第二次世界大戦における二世兵士の果敢な戦いぶりと犠牲を回顧する日でもある。シアトルではレイクビュー墓地で終戦1年後の1946年から追悼式典が続くが、二世兵士の高齢化が進むなか、近年は顕彰活動そのものについても模索が続けられている。
慰霊塔の建立 仲間の犠牲を悼む
メモリアルデーに日系兵士の死を追悼する式典は第二次世界大戦終戦の翌年から始まったが、『北米百年桜』(伊藤一男著)によると、当時はまだ兵士の遺骸がシアトルに帰還していなかった。復員した二世たちは命を捧げた仲間を迎え、また称えるため、有志を集い慰霊塔の建立に向けて募金活動を開始。寄付はわずか50日後に目標額を大きく上回り、レイクビュー墓地に建てられた高さ21フィートの慰霊塔は、1949年5月30日のメモリアルデーに除幕された。
現在は米西戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻で戦死した日系兵士合わせて64人の名前が塔に刻まれ、メモリアルデーには毎年、二世退役軍人や遺族、政府関係者らが追悼の花輪を供えている。
「亡くなった二世兵士は私たち日系人が真の米国人であること、そして母国に忠誠であることを証明するために闘い、命まで捧げた。彼らに敬意を表すため、その犠牲を悼むため、私は足を運んでいます」
兄4人が第442連隊や陸軍情報部(MIS)に所属していたというハーブ・ツチヤさん(80)は、追悼式典が始まってからほぼ毎年出席している。
日米開戦 戦線へ向かった二世たち
1941年12月、太平洋戦争が始まると日系人は「敵性外国人」とされ、ワシントン州西部に住む日系人は強制退去の後、収容所に送られた。米国生まれの二世が受けた衝撃は計り知れないが、そのような状況にあっても母国に忠誠を誓う二世は数多く、ハワイでは翌年6月、日系人による第100歩兵大隊が編成され、43年5月には同じく日系人で編成される第442連隊も訓練を開始した。
「当たって砕けろ(Go for Broke)」をモットーとする第442連隊には結成時、ハワイ出身者2500人以上、本土出身者約1300人が所属したが、そのほとんどが志願兵だった。この日系部隊はフランスで退路を絶たれ孤立していた「失われた大隊」の救出に成功するなど、ヨーロッパ戦線で活躍。一方、日本語の得意な二世はMISに配属され、沖縄や硫黄島など太平洋戦線で通訳や捕虜への尋問など務め、戦争終結を早めたといわれる。
しかし、こうした功績に伴う犠牲も大きく、第442連隊の死傷者は延べ約8800人とされ、ワシントン州出身の58人も命を落とした。
偏見、不平等な扱いとも戦った二世兵士の働きは終戦後、徐々に英雄視されるようになり、顕彰も進む。ワシントン州出身のウイリアム・ナカムラ上等兵(44年死去)とジェームズ・オオクボ技術兵(67年死去)を含む22人(*)には2000年、名誉勲章が与えられ、11年11月には第100大隊、第442連隊、MISに対し、米連邦議会が最高位の勲章となる「議会名誉黄金勲章」を授与している。
(*)日系以外のアジア系兵士も含む
二世の高齢化 次世代に伝える
追悼式典をはじめ講演や展示など日系兵士の顕彰活動を続けてきた二世復員軍人会(NVC)だが、近年は会員の高齢化に直面する。改めて強調されるのが次世代に伝える重要性で、2005年に立ち上がったNVC基金と共にさまざまなプロジェクトを展開する。
NVCのデール・カク副コマンダーは「若くして亡くなった彼らは、キャリアを積むことも家族を増やすこともできなかった。その尊い犠牲はこの国だけのためでなく、私たちに日系人、特に後に続く世代のためでもあったと思うのです」と話す。
今年のメモリアルデーはあいにくの雨に見舞われ、出席者も例年より少なめとなったが、会場には退役軍人や小さな子供を連れた関係者の姿があった。長年続く式典では、日系の政治家やコミュニティー・リーダーが基調演説に立ち、自身の父親、祖父の経験談を交えながら日系兵士の功績を語り継ぐ意思を示すこともある。また、旗の掲揚を担うシアトル別院仏教会のボーイスカウトの隊員には、日系の名前が並ぶ。
メモリアルデーにとどまらず、日系兵士の功績を伝える試みはあらゆる方向から続けられている。第442連隊を題材にした映画や書籍は数多い。
前述のツチヤさんは演劇プロデューサー・役者でもあり、「私は演劇という形で二世兵士の物語を伝えたい。若い世代にとってはより入りやすく、記憶に残るものだと思うから」と語る。
NVCは2010年、日系兵士の名前を記した記念壁を完成させたほか、元兵士らが体験を語る講演シリーズを定期的に開いている。
* 本稿は『北米報知』2013年7月18日号に掲載された記事の一部を筆者が編集したものです。
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