日系2世のアケミ・キクムラ=ヤノは、昨年(2008年)2月、ロサンゼルスのリトル・トウキョウにある Japanese American National Museum(全米日系人博物館)のCEO(最高経営責任者)に就任した。全米日系人博物館は、日系アメリカ人の体験を伝えるアメリカで初めての博物館で、1992年に開館し、1999 年には新館がオープンした。日系アメリカ人に関する資料の収集、展示会やイベントの開催、書籍やDVDの作成と販売、ウェブサイトの運営などを行い、日系人の歴史を世界に発信している。私もロサンゼルスを訪れたときは必ず立ち寄ることにしており、展示物を見るだけでなく、ヒラサキ・ナショナル・リソースセンターと呼ばれる資料室で、本や雑誌、ビデオなどを利用させていただいている。
キクムラは、同博物館が開館する前の1988年から20年にわたって初代の館長を務めた、アイリーン・ヒラノの後任である。2代続けての女性館長の誕生だ。
収容所での経験を語らない両親のもとで
キクムラは1944年、アーカンソー州のローワー収容所で、1世の菊村三郎と千枝の間に10女として生まれた。収容所を出てからカリフォルニア州のローダイ、その後はロサンゼルスで育ち、教育を受けた。一番上の兄妹とは20歳の開きがある。兄妹たちの話に入っていくことができず、いつも身を屈めてじっと話を聞いていた。親が収容所の話をすることはなかったが、それが家族の重要な歴史になっていることには気づいていた。なぜなら、両親にとって収容所前、収容所後、が記憶の基準になっていることが、言葉の端々から感じられたからである。
ハイスクールの学期末レポートで家族の収容所体験を書こうと決めた。日系人の収容所に関して、歴史の教科書が「第2次大戦中、日系人は保護されるため、収容所に収容された」という一文で片付けていることに疑問を抱いたからである。しかし、母親に尋ねてみると、「収容所、あの頃はよかったわね」などと話をかわされてしまい、あまり話を聞くことができなかった。父、三郎は彼女が9歳の時に不慮の事故で亡くなっており、話を聞く機会を逸していた。
三郎は歌や踊りが上手で、人を楽しませるのが好きな人だったらしい。アケミもその血筋を引いているのだろう。ハイスクールを卒業すると、姉の一人とラスベガスに行って、2年間、コーラスガールとして踊った。62年には、「The Nun and the Sergeant」(日本未公開)という映画に出演している。ラスベガスにいるときに、白人の元夫と知り合って結婚し、夫の勧めで夜間の大学にいって演劇を勉強した。
日系人アイデンティティを再認識したUCLA時代
その後、夫の転任でロサンゼルスに移り、キクムラはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で勉学に打ち込むことになるが、マコ・イワマツがたちあげたアジア系の演劇集団、イースト・ウエスト・プレイヤーズ(EWP)に属して、演劇活動も続けていた。 70年代にキクムラは、「Farewell to Manzanar」(1976)、「Man from Atlantis 」(1977)、 「Up in Smoke」(1978)という3つの作品に役者として出演している。
とりわけ、「Farewell to Manzanar(マンザナーよ、さらば)」は、日系映画史の中で特筆すべき作品である。ジーン・ワカツキ・ヒューストンによる同名の小説をドラマ化したもので、戦時中の日系収容所の一つ、マンザナーでの筆者の家族の体験を描いている。配役にはマコ・イワマツ、パット・モリタ、ユキ・シモダ、ノブ・マッカーシーら、そうそうたる日系俳優を揃えている。キクムラは、ワカツキ夫妻の子供の一人を演じおり、両親の銀婚式の場面で「支那の夜」を歌っているのがとても印象的だ。
60年代から70年代にかけて、エンターテインメントの世界と学業を両立させ、さらには結婚、出産、離婚まで経験したキクムラだが、この時期は、黒人の公民権運動と相まって、アジア系アメリカ人が自分たちのアイデンティティを意識し、権利を主張した時期でもある。こうした政治的背景の中で、キクムラは他の多くの2世と同じように、それまで使っていたアメリカ名のスーザンをやめて、アケミという日本名を使い出した。
UCLAでは大学院に進み、1975年から我妻洋教授のもとで人類学を学んだ。我妻から、博士論文として母、千枝の個人史を聞き書きすることを勧められた。そのためには日本語を学び、日本で母の兄妹や父の親類からも話を聞く必要があった。周到な準備をして、77年の秋、ついにアケミは来日して調査にとりかかった。無事、論文を書き上げて79年に博士号を取得。その成果は81年に『Through Harsh Winters』というタイトルで出版された。10年後の1991年には父、三郎の個人史を『Promises Kept』にまとめた。
全米日系人博物館での精力的な活動
大学で教鞭をとる傍ら、キクムラは80年代後半から全米日系人博物館の学芸員を務め、オレゴンやハワイなどの日系人の展示を企画、制作してきた。展示の際には、我妻のもとで培った個人史の手法を重視した。博物館の展示で取り上げる地域が決まると、現地でボランティア組織をつくって日系人の個人史を拾い集め、そこから集合的な物語をつくっていくのである。彼らの声は、写真、生活資料、映像、復元された日系人強制収容所のバラックと一体になって来館者に語られていく。
彼女はまた、同博物館のニッケイ・レガシー・プロジェクトの根幹であるウェブサイト「ディスカバー・ニッケイ」の責任者でもある。ここでもやはり、個人史の集積、という概念が生かされている。個人史を文字、声、映像で残していくのに、ウェブサイトほど優れた媒体はないであろう。
また、1998年から2001年まで同博物館主催の「国際日系研究プロジェクト」の責任者をつとめ、グローバル化のなかの日系コミュニティ、さらにはラテンアメリカ諸国からの日本への出稼ぎまで対象として共同研究を進めた。その成果は、2002年に『Encyclopedia of Japanese Descendants in the Americas(アメリカ大陸日系人百科事典)』と、『New Worlds, New Lives: Globalization and People of Japanese Descent in the Americas and from Latin America in Japan(日系人とグローバリゼーション-北米、南米、日本)』という2冊にまとめられ、世に出された。
*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版 のWebマガジン「風」 のコラムシリーズ『二つの国の視点から』第6回目からの転載です。
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