ディスカバー・ニッケイ

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エミコ・ツチダ

(Emiko Tsuchida)

@emikotsuchida

エミコ・ツチダはサンフランシスコ在住のフリーランスライター兼デジタルマーケターです。混血のアジア系アメリカ人女性の表現について執筆し、トップクラスのアジア系アメリカ人女性シェフ数名にインタビューしてきました。彼女の作品は、ヴィレッジ・ヴォイス、アジア系アメリカ人メディアセンター、近日発売予定の「Beiging of America」シリーズに掲載されています。彼女は、強制収容所を体験した日系アメリカ人の体験談を集めるプロジェクト「Tessaku」の創始者でもあります。

2016年12月更新


この執筆者によるストーリー

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ナンシー・ヤマモト - パート 2

2017年3月15日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>あれは大変な時期でした。ある時、女子会のために家に帰り、月曜日の朝に電車でサンフランシスコに戻るつもりでした。でも、電車に乗ることは許されず、切符も売ってもらえませんでした。まだ彼の姿が目に浮かびます。私が「なぜダメなの?」と聞くと、彼は「あなたの国が私たちに対して戦争を始めた」と言いました。私は、それは私の国ではない、私はアメリカ生まれの日系アメリカ人だと言いました。彼は「関係ない、あなたにチケットを売ることはできない。チケットが欲しか…

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ナンシー・ヤマモト - パート 1

2017年3月14日 • エミコ・ツチダ

かつて私は女子会のために家にいて、月曜日の朝に電車でサンフランシスコに戻るつもりでした。しかし、電車に乗ることは許されず、切符も売ってもらえませんでした。今でも彼の姿が目に浮かびます。私が「なぜダメなの?」と言うと、彼は「あなたの国が私たちに対して戦争を始めたんだ」と言いました。 -- ナンシー・ヤマモトオークランド仏教会のもみじ会に長年所属していた若きナンシー・ヤマモトは、ファッションデザイナーになり、シカゴやニューヨークの最高のデザイナーから学びたいと夢見ていた。彼女の…

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吉田房江 - パート2

2017年2月28日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >> 【房江さんへ】収容所に移ることについて、ご両親があなたとどんな会話をしたか覚えていますか?どうやら彼らは流れに身を任せたようです。荷物をまとめ、クリーニング店を閉めました。そして私たちは避難が来ることを知っていたので、避難を待ちました。学校で何か嫌な経験をしたことはありますか?私たちの学校はそれほどひどい状況ではなかったし、私はそうは感じませんでした。私は中学生でした。実際、学校は特別な送別集会を開きました。タコマ市長は避難に反対した数…

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吉田房江 - パート 1

2017年2月27日 • エミコ・ツチダ

「私たちがいたトゥーレ湖に戻ってバスを降りた時、彼は老人になっていた。今でもそのことを思い出すと涙が出る。彼はとても老けていて、それがとても目立っていた。でも私は収容所で何が起こったのか彼に尋ねるには幼すぎた。」 -- 吉田房江私はオークランド仏教会の高齢者グループ(紅葉会)を通じて吉田房江さんと知り合いました。この教会は、私の祖母が50年以上通っていた教会であり、祖母と私の祖父の追悼式が行われた教会でもあるなど、私たち家族にとって多くの歴史を持つ教会です。房江さんは、私が…

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ディガー佐々木 - パート2

2017年2月2日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >> [ Digger へ] トゥーリー湖の第一印象や到着時のことをお話しすると面白いと思います。 ディガー・ササキ(DS):パインデールに3か月滞在したことで、兵舎やその他について少し知ることができました。でも、パインデールはそれに比べるととても小さいです。私たちがパインデールに派遣されたのは、トゥーリー・レイクで兵舎の建設がまだ終わっていなかったからです。実を言うと、パインデールからトゥーリー・レイクまでどうやって行ったのか思い出せません…

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ディガー佐々木 - パート 1

2017年2月1日 • エミコ・ツチダ

「兵士や機関銃を持ったジープがキャンプを巡回していたんです。ある意味、とても興奮しました。」 -- ディガー佐々木ディガー・ササキには、高校時代まで遡る、本名に完全に取って代わる変わったあだ名がある。「高校時代、フットボールをやっていました。練習では、足を鍛えるためにそりを押さないといけないんです。そりを押すときは、みんな「掘れ、掘れ、掘れ」って言うんですよ。ある日、コーチがみんなにこう言いました。「ディックはチームで一番小さいけど、一番のディガーだと思う」。だから、高校時…

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ハワード・ヤマモト - パート 2

2017年1月27日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>和田さんがご家族を説得する必要があったかどうか覚えていますか? いいえ、それは分かりません。ただ、彼が「私も連れて行ってください」と言ったのだと想像するだけです。歴史を振り返ると、彼らは自発的にカリフォルニアを離れることが許されました。そして、10,000 枚ほどの許可証が発行されたと思います。その 10,000 枚のうち、成功したのはほんのわずかです。多くはありません。私が読んだ情報によると、彼らは国境で追い返されたそうです。他の何人か…

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ハワード・ヤマモト - パート 1

2017年1月26日 • エミコ・ツチダ

「大変でした。両親にとっても大変でした。私にとっても大変だったでしょうか?わかりません。苦労したことはあまり覚えていません。でも両親は、なんてこった。私にできるでしょうか?いいえ、できませんでした。自分ができるなんて想像もできません。」 —ハワード・ヤマモト強制収容所に送られた 11 万人の日系アメリカ人のうち、130 人が食堂の食事、有刺鉄線、監視塔といった厳しい現実から逃れました。4 歳のハワード ヤマモトもその 1 人でした。収容所に入らずに済んだのは幸運でしたが、強…

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ボブ・カネコ - パート 2

2017年1月13日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>それで、収容所では何が起こったのですか? あなたの家族は自発的に行きました。ボブ・カネコ(以下、BK):彼らは自発的にオーバーンに行きました。そして集められました。実際、私の母は彼らがいた地域はオフィールと呼ばれていたと言っていました。実際、私の妹の出生証明書には「カリフォルニアの田舎」と書かれています。キャシー・カネコ(CK):彼のお母さんによると、医師が出産に立ち会えなかったため、友人の妻が出産し、その後すぐに医師が到着したそうです。…

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ボブ・カネコ - パート 1

2017年1月12日 • エミコ・ツチダ

残念ながら、金子氏は2016年9月18日に亡くなりました。インタビューを読むことができなかったことを残念に思いますが、これが彼の記憶を偲び、彼の輝かしい人生に大きな敬意を表することができれば幸いです。教室の前には先生がいて、いろいろな種類の警棒を持っていました。カトリックの修道女が子供を叩くという話を聞きましたか? そうです、この人たちも同じことをしたのです。 -- ボブ・カネコ昨年 11 月にバークレーにあるカネコ氏の自宅を訪れた際、若かりし頃のカネコ氏が最近、大きなメデ…

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