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ブラジルの日系コミュニティにさらなる力を与える - パート 1

ブラジルの発展に1世紀以上にわたり重要な役割を果たしてきた日系移民とその子孫たち。その貢献を振り返るとともに、現在ブラジルの日系社会を支援する国際協力機構(JICA)の取り組みを紹介します。

1960年、ブラジルのサントス港でアフリカ丸から下船する日本人移民たち。(JICA横浜海外移住資料館提供)

封建制度下の江戸時代(1603~1867年)、徳川幕府は日本人の海外渡航を禁じ、オランダや中国など一部の国を除いて外国貿易にも制限を設けていました。

しかし、1868年の明治維新で徳川幕府が倒されると、新しい明治政府が西洋の先進的な技術を導入し、海外貿易や人的交流を促進して日本の近代化を進めました。また、新しい政府が海外への出国禁止令も解いたため、生活のできない国内を離れ、海外で豊かな生活を求める日本人も現れました。

こうした人々の第一波は、1868年にサトウキビ畑の労働者としてハワイ王国(現在のアメリカ合衆国ハワイ州)へ渡った日本人移民でした。その後、カリフォルニアやカナダなどの北米、1897年にはメキシコ、1899年にはペルー、1908年にはブラジルなどラテンアメリカやカリブ海諸国へ、次の波の日本人移民が始まりました。

明治政府がラテンアメリカやカリブ海諸国への移民を奨励し、また、それらの地域の政府が労働者を必要としていたため、多くの日本人がそれらの国々に移住した。ラテンアメリカやカリブ海諸国の中で、最も多くの日本人がブラジルに移住した。

第二次世界大戦前に中南米諸国に移住した日本人は約24万人、ブラジルには約19万人が移住した。当初はコーヒーやサトウキビのプランテーションで働く日本人移民が多く、厳しい環境や気候の中で低賃金の過酷な仕事を強いられ、マラリアなどの熱帯病に悩まされた。しかし、自ら土地を購入して農業に従事し、都市で野菜を売ったり、レストランや旅館を経営したりする日本人移民が増えていった。

こうして、日本人移民はブラジル社会に溶け込んでいった。農産物の品質の高さや小売業のサービスの良さなど、さまざまな面で日本人移民やその子孫(日系人)の誠実さと勤勉さが高く評価されるようになり、「信頼できる日本人」という言葉も定着した。

また、日本人移民は教育志向が強く、欧米からの移民が教会を設立したのに対し、日本人移民は中南米に定住後すぐに学校を設立したといわれる。高学歴の日系人も多数輩出され、弁護士、医師、政治家として活躍した。現在、中南米には一世と呼ばれる日本人移民とその子孫が213万人いると推定され、そのうち約190万人がブラジルに居住している。

「日本人移民はブラジル人にアジアを知る機会を与えた」と国際協力機構(JICA)ラテンアメリカ・カリブ部次長の吉田聡氏は言う。「一方、日本人にとって彼らは江戸時代の長い鎖国政策の後の日本の国際社会への参加の象徴でもあった」

農業への貢献

ブラジルのかつて不毛だったセラードの土地が日本の協力により農業用に開発されました。(JICA提供)

ブラジルの発展に重要な役割を果たした日系移民とその子孫は、特に農業分野で大きな貢献を果たした。「日系移民とその子孫は、ブラジルの食生活に大きく貢献しました」と吉田氏は言う。「かつてブラジル人は肉を多く食べていましたが、日系移民とその子孫が野菜の生産と流通を拡大するとともに、野菜の調理法も普及し、ブラジル人の野菜消費量が大幅に増加しました。野菜消費量の増加は、栄養状態の改善による健康寿命の延伸にも貢献しています」

農地開発については、ブラジル中西部に広がる「セラード」と呼ばれる熱帯サバンナ地帯の開発に日系移民とその子孫が携わりました。セラード地帯は農業に適さない不毛地帯とされていました。

1973年、アメリカは大豆の不作を理由に大豆の輸出を禁止しました。当時、日本はアメリカ産大豆に大きく依存していたため、新たな農業の開拓が必要でした。このような状況下で、日本はセラードを農地として開発したいブラジルと共通の利益を共有していました。

セラード開発は、1974年に当時の田中角栄首相がブラジルを訪問し、政府開発援助(ODA)による協力を表明したことがきっかけとなった。JICAは1977年に技術協力を開始し、土壌や作物の品種、栽培技術の改良などを支援した。また、1979年にはブラジルと共同で金融会社を設立し、農地開発事業に乗り出した。この協力事業は2001年まで続き、セラード地域は大豆、トウモロコシ、コーヒーなど世界有数の農産物生産地へと変貌を遂げた。この開発事業で、多くの日系移民やその子孫がセラード地域に定住し、農地を開墾し、多くの農産物の生産を拡大した。

ブラジルには、日本人移民やその子孫によって栽培が普及した農産物も数多くあります。フジと呼ばれるリンゴもその一つです。1960年代まで、ブラジルは国内のリンゴ消費のほとんどを輸入に頼っていました。リンゴは高価で、病気のときしか食べられませんでした。

しかし、1970年代初め、ブラジル政府は、国産の良質なリンゴを生産することを目的に、リンゴ栽培に関する技術協力を日本に要請しました。ブラジル政府の要請に応えて、海外技術協力事業団(JICAの前身)は、青森県果樹試験場の後澤健治博士を専門家としてブラジルに派遣しました。後澤博士は、日系移民とその子孫が中心となって組織された農業協同組合「コチア農業協同組合」と協力し、ブラジル国内を歩き回ってリンゴ栽培に適した土地を探しました。

それから約3年後、後澤博士はブラジル南部サンタカタリーナ州の高原地帯サンジョアキンをリンゴ栽培地として採用することを決定し、栽培品種として「ふじ」を選びました。サンジョアキンでは1974年から日本人移民とその子孫が定住し、リンゴ栽培を始めており、後澤博士は彼らに技術指導を行いました。

ブラジル南部のサン・ジョアキンで、果樹園の作業員がフジリンゴの木の手入れをしている。(JICA提供)

後澤博士の任期終了後も、JICAは約25年間にわたり専門家を派遣し、農家への支援を続けてきました。この協力の結果、サン・ジョアキンはブラジル有数のリンゴの産地に成長し、ふじリンゴはブラジル人にとって非常に身近なものとなり、どのスーパーでも簡単に購入できるようになりました。

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*この記事は、2018年6月1日にTJJ OnLineで最初に公開されました。

© 2018 The Japan Journal

農業 ブラジル 農業 (farming) ハワイ 日系アメリカ人 独立行政法人国際協力機構(団体) 日系 アメリカ合衆国
執筆者について

澤地治氏はジャパンジャーナルの編集長です。1992年にイリノイ州ノースウェスタン大学で政治学の修士号を取得しました。1993年よりジャパンジャーナルの編集者として勤務しています。東京在住。

2019年1月更新

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