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季節外れの肌寒い風が吹きすさぶ早朝、ミネドカの旅参加者約200人が収容所跡地の入り口に降り立つ。近くには当時の敷石が残る「ビクトリーガーデン」、すぐ横に収容所から米軍に志願した日系人兵士を顕彰する「Honor Roll(栄誉名簿)」が見える。2011年に当時の作りを再現したものだ。国立公園職員のアンナ・タムラさんが翻る星条旗を指さし、「ここは愛国心という意味で非常に象徴的な場所です」と紹介した。
友達、食事、開拓――それぞれのミネドカ
「(収容所の周りは)いつも埃っぽい風が吹いて、地面は泥深くぬかるんでいました」
日本人バプテスト教会のブルックス・アンドリュース牧師が当時を振り返る。同教会の牧師だった父エメリーさんは、日系人に寄り添い収容所近くのツインフォールに移住。ミネドカ収容所で引き続き牧師として務めた。「あの時、父について(ミネドカ収容所に)通った私は、幼くてただ友達に会うのが楽しみで、収容所の不正義に気付いていませんでした」
食堂施設として使っていたという長屋のバラックには、施設内には長机を囲んでソーセージをほおばる子供たちの写真が飾られていた。
今年米寿の祝いだというボブ・ワタナベさんが懐かしそうにほほ笑む。「あるとき夕食で大きな牛タンを食べたのを覚えています。とても固かったですが」
タカコ・コギタさんは、「調味料のバラエティが乏しくて。しょう油なんて手に入らなかったから日本食を食べる機会は少なかったです」と振り返る。
「両親たちは器用にならざるを得なかったのだと思います。身一つで米国に渡ってきたのだから」と10代を収容所で過ごしたペギー・ハナダさんは一世の苦労を話す。
ハナダさんは両親の故郷広島で半年間日本の教育を受けた。いわゆる「帰米」の一人だ。当時はあまり馴染めなかったというが、今は日本を好きだという。「親族が日米で離ればなれでしたからね。両親はお互いが戦争をすることに大変心を痛めていました」
収容所の日系人たちは懸命に周りの荒れ地を開墾、開拓した。のどかな農園風景を見せる現地の姿は、日系人たちの手によって作られたものだ。時折吹く土ぼこりを伴う強い風、朝昼で寒暖の激しい気候がかつての厳しい環境を思い起こさせる。
国立公園局のタムラさんは、「当時の収容者の暮らしぶりを知ってこそミネドカを知ることができるのだと思います」と跡地見学を締めくくった。
ミネドカで動くキモチ
年月を経て、当時の経験は過去のものとなりつつある。だが、ミネドカ収容所跡地に現存する数少ない施設の一つ、消防団事務所を巡ったとき、消防士を務めるジョン・タナカさんが、リベラルといわれるシアトルでさえ、人種差別が根深く残っていたことを明かす。
「1988年当時、新人時代に勤めていた消防署で私は唯一のアジア系でした。『君みたいなやつはこの仕事に値しない』と上司に言われたことを良く覚えています」
ツアー3日目の夕食後に開かれた「レガシーセッション」では、シンポジウムや跡地見学を踏まえて各参加者の思い、「キモチ」が共有、交換された。冒頭でビー・キヨハラさんとジョニー・バルデスさんが自らの家族の経験談を交え基調講演を行った。筆者もまた、「ここで得た経験を日本に伝える一助となりたい」という旨のスピーチを行った。
グループに別れての座談会では、三世のジャナ・イワサキさんが「経験者から直接話を聞けるのも年々厳しくなっている。ぜひ我々が語り継いでいかなければ」と声を上げる。
三世のティム・ナンバさんも「一人一人のできることは限られている。それでもこのミネドカの旅のように大勢の人が記憶を継承し少しでも後世に伝えようとする努力の意義は大きいのではないか」と提言する。
10代のティム・サトウ君は収容所に関する現在の歴史教育の是非を問う。「学校では収容所のことを『日系人は連れてこられ、解放され、政府は謝りました』のようにごく一部しか教えない。何故起こったのか、何があったのか、僕は知りたい」
後世へつなぐバトン
最終日の朝、第二次世界大戦中に米陸軍情報部(MIS)の一員としてビルマ戦線の英国軍に協力したヒロ・ニシムラさんが、日本と戦火を交えた経験について口を開く。
「私はずっと子供たち、孫たちに自分の戦争体験を話してきました。ただ将来のためです。筆は得意ではないですが家族に向けて自伝も書きました」
よどみない丁寧な日本語で答える。今年で93歳。ドロシー夫人と、かくしゃくとした足取りで全行程に参加した。
「日本を誇りに思っています。我々二世は両親から日本のレガシーを教わり受け継いでいるのです。そのおかげでМISや442部隊は讃えられているのですから」
名古屋で生まれ育ち、戦後シアトルへ移住、きさらぎ会会長も務めた西田まどかさんは初めてミネドカを訪れた。「あの時(第二次世界大戦中)は名古屋も焼けてしまったし、日本も大変でしたから。さぞこちらの方も苦労をなされただろうと思っていて、どうしてもここへ来たかったのです」と、戦争という激動の時代を生き抜いた一人として、西田さんは日系人収容の歴史に思いを重ねる。
今回の旅は過去2番目となる参加人数となった。高齢を迎え、「今回が最後かもしれないから」という思いを持つ収容所経験者も多く、若い世代も積極的に日系人のアイデンティティの根幹にかかわる経験を受け継ごうとする。
昨年に引き続き参加したラウアー譲治さんは、「(強制退去)から70年以上経っているけれど、(当時の経験談は)まだまだたくさんの人の心を動かせるんですね」と振り返る。
帰路のバスのなかで、ペギー・ハナダさんが話す。「なんで今まで(収容経験を)子供たち、孫たちに話さないようにしていたのか、少し恥ずかしささえ感じますね」
アラン・リンドウォールさんは3度目のミネドカ訪問を振り返り、「毎年本当に貴重な経験を得ることができる。初めて来たとき、この場にいることに幸運を覚えました。毎年違って、毎年良いものです」
ミネドカの地で連綿と紡がれてきたキモチのバトンは、後世へと受け継がれている。
* 本稿は、2013年8月1日、シアトルの日英バイリンガル新聞『北米報知 (The North American Post) 』に掲載されたものです。
© 2013 Hajime Watanabe, The North American Post