ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/469/

家族構成(英語)

(英語) 私はシアトルで生まれました。

I*: 何年生まれですか?

1921年です。3歳くらいまでシアトルで過ごし、その後6ヶ月ほど日本で暮らしました。3番目の弟は日本で生まれました。アメリカへ戻った後は、父が営んでいた饅頭屋があったシアトルとポートランドにしばらく住みました。父は、饅頭屋、和菓子屋ですね、をしていたのですが、日本で修行を積んだ腕の良い和菓子職人でした。タコマで風月堂という店を開き、店はとてもうまく行っていました。父は、1931年までに4人の息子を持つ親となり、子供たちを田舎で育てたいという想いから、私たちを連れて町を出てオレゴンの田舎に移り住むことにしました。

(写真を見ながら)これが私、ケン、ヨシ、タカシです。タコマに住んでいた当時の兄弟4人です。この写真は父ですね。1918年頃撮ったものでしょう。父は店を売り、農家になることを決心しましたが、農業の経験は全くありませんでした。オレゴンには父と同郷の岐阜県出身の友人がいたので、その人を頼りに行くことになりました。 私たちは、ポートランドから西へ約30マイル、ヒルサイドという土地に移り住みました。そこで父は、いちご農園を作るための土地を30エーカー購入しました。

* "I" はインタビュアー(アケミ・キクムラ・ヤノ)


菓子 家族 風月堂(Fugetsu (confectionery store)) 岐阜県 日本 饅頭 イチゴ

日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

トシオ・イナハラ医学博士は、1921年4人兄弟の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。3歳の時、家族とともに日本へ6ヶ月間滞在、その後、アメリカのタコマへ帰国した後、彼の父は和菓子屋、風月堂をオープンし成功しました。子供を田舎で育てることを望んだ父は、1931年にオレゴン州ポートランドの30マイル西にある農場へと引っ越しました。

1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機に、西海岸にいる日系アメリカ人に対して集合センターへの移動命令が公布されました。しかし、イナハラ一家は旅行許可書を手に入れ、オレゴン東部の州境にあるオンタリオの近くへと自主的に移動しました。1942年、トシはアメリカ空軍へ志願しましたが、日系人という理由で拒否されました。

2年間家族の農業を手伝ったあと、トシオはウィスコンシン大学へ入学し医学を学びました。戦後はポートランドへ戻り、1950年オレゴン大学で医学博士を取得します。その後、インターンシップ・医学研修期間を終了した彼は、ボストンのマサチューセッツ病院で血管外科医として訓練を受けました。その後ポートランドへ戻り、個人で開業するかたわら、オレゴン大学の医学学校にて外科医学の臨床講師として務めました。

現在、イナハラ博士は頚動脈内膜剥離術(carotid endarterectomy: CEA)における世界で最も権威のある医者の一人であり、プルイット・イナハラ頚動脈シャントの共同発明者でもあります。(2005年12月6日)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。