私は、正月を一度も祝ったことがありません。私の国の日系コミュニティーと強い繋がりがあるにも関わらず、日本の伝統的なお正月というものを祝ったことがないのです。日本の文化については学んでいたので、正月がどのようなものかは知っていましたが、私には関わりのないことだと思ってきました。私の家では、新年(元旦)をペルーの伝統や風習にそって祝っていました。黄色のデコレーションや花火、スボンのポケットに入れるフレホーレス(豆)、そして当時は認められていた街頭での人形焼きなどガラリました(今は、禁止されています)。
私は二つの日系学校に通いました。そこでは七夕祭り、運動会、子供の日等、日本の伝統的な行事がありましたが、「お正月」を祝った記憶がありません。年末はクリスマスがメインイベントだったので、それが原因で正月が学校ではほとんど注目されなかったのかもしれません。もしかしたら、これらの学校はカトリック教の影響を受けていたので、日本のお正月の宗教的側面があまり歓迎されなかったのかもしれません。
私は、お正月に関心があったので、母になぜ「お正月」というものが我が家にはなかったのか聞いてみました。私の家族は、父が日系人でないということもありますし、日本の伝統的なしきたりを家で祝うことは難しかったのかもしれませんが、「お前のおばあちゃん聞いた方がいい。おばあちゃんならその理由がわかるだろう」と母に言われました。
祖母、私の母方の母は、日系人ではありません。祖母が私の祖父ヒロシさんと結婚したので、私にはニッケイの血が流れています。なので、祖父の両親や兄弟との生活様式についていろいろ聞いたのだと思います。
祖母の義父にあたる私の曽祖父が数十年ぶりに里帰りをした時のことです。曽祖父は、日本から戻ったときに義娘である私の祖母に、「エンマ、ペルーの国旗を買ってきてくれ、俺はペルー人である」と言ったそうです。この出来事は、祖母にとってとても嬉しかったようで、よく自慢げに話していました。
祖母に、正月について昔我が家ではどのように祝っていたのか聞いてみました。すると、昔は多くの親戚が招待され、盛大なディナーを毎年開催していたというのです。曽祖父母はその年の主な出来事について話をし、みんなに報告していたようです。たくさんのご馳走が用意され、年末(大晦日)をお腹いっぱいで終え、子供たちは大人からプレゼントをもらい、新しいものを持ってその年を終えていたそうです。曾祖母はたくさんの沖縄料理をふるまい、曽祖父は自分の故郷の踊りを披露したそうです。
我が家にとて、お正月はとても大事な行事だったため、仏壇に線香を立ててもうこの世にはいない先祖を供養していました。また、曽祖父の兄が幼い頃に亡くなっていたので、毎年正月にはその慰霊を慰めていました。なので、我が家の正月または元旦には、祖父の仏壇には線香が焚かれていたことを記憶しています。ときが経ち、集まる人も変わり、祝い方も変化してきましたが、祖母はこのようなことにとても気遣っていました。
1990年の初頭、多くの親戚はもっといい仕事を求めて日本に行きました。曽祖父たちは何十年も前に同じような理由で日本からペルーにやってきましたが、今度は自分の子供や孫たちが生まれ育った国以外で日本の伝統を体験をすることになりました。なので、日本へ家族がデカセギに行ったのを機に、曽祖父母はあまり立派な正月をすることがなくなりました。しかし、祖母だけはペルーに残った親族らがきちんとした正月を祝えるようにと毎年企画をしていました。そのおかげで我が家の伝統やしきたりが継続できたのです。
曽祖父が亡くなり、我々の家長がいなくなると、それまでの様々な行事や祝い事の意義が薄れていきました。親戚の一部はもう正月に集まることはなくなりました。が、祖母の話によると、祖父が生きている間は正月に色々なお土産をもって、逆に親戚を訪れていたとのことです。ですが、以前のようなお正月を祝うことはありませんでした。
私が生まれた頃には、正月は祖母の家でお祝いし、多くの家庭のように七面鳥を焼いてみんなで食べる習慣になっていました。ときには、父方の祖父母の家で正月を祝うこともありましたが、タジャリンというトマトソースのスパゲッティ(骨つきチキンを添える)とアンデススープ(トウモロコシ、テール、じゃがいも、ハチノス等の栄養たっぷりのスープ)がご馳走に並びました。当時はすでに、多くの親戚が日本や他の国に住んでいたので、母方の祖父とはあまり付き合いがなかったのです。それでも、日系人としてのルーツやそこから学べることはとても大事なことでした。
2011年には日本に住んでいた一部の親戚がペルーに一時帰国しました。数十年も会っていなかった親戚もいましたし、会ったことがない親戚もいました。このときはみんなが集まり、盛大に正月を迎えました。日本からペルーに戻った叔父さんたちはペルーの伝統に沿って新年を迎えましたが、そうした風習は以前のとはかなり異なっており、黄色いデコレーション、飾り物、そして目立つメガネなどをつけてお祝いをしました。
私はまだ幼かったのであまり実感できませんでしたし、親戚と長年会わないことが何を意味するのかも分かりませんでした。今は大人になり、その大切さが分かり、ペルーであっても日本であっても、またみんなと正月や祝い事を一緒に過ごしたいと思います。
時代は変わりましたが、でも正月はその特質を持っていると思います。私は伝統的なお正月を祝ったことがありませんが、やはり祖母の眼差しを記憶していますし、自分がまだ存在しないときから正月の価値を継続し、それが今我々の生活にも染み込んでいます。我が家で以前どのように正月を迎えていたかを知ることで、自分の家族ヒストリーをもっと理解することになりましたし、今後このことをもっと深めていきたいという思いが強くなりました。
© 2025 Hiro Ramos Nako