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川崎和博さん〜エバーグリーン州立大学名誉教授 — その2

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ありのままを見つめることこそ美術の真髄

専攻を変えて間もない頃、カリフォルニアにて。当時のファッションに身を包んで(1970年)

来る日も来る日も熱心に絵を描き続け、腕前も相当上がったが、何かが足りない。「そうだ、僕には絵の才能がないのだ」。ヒロさんは大学4年次にいったん絵筆を置く。それがヒロさんの結論だった。

もう絵の具の匂いを嗅ぐことすら耐え難い。再び失意のどん底に落とされたヒロさんは、心を癒やすためにふらりとサンフランシスコへと旅立つ。

着いた翌日には、コーヒー・ショップで女性ふたりと知り合い、掃除や料理を引き受ける代わりに屋根裏部屋に住まわせてもらうことになった。料理は得意だ。ヒロさんは空いた時間に、好きなだけ絵を描いた。締め切りも、周囲の評価も、全く関係ない。「こんなに幸せだった日々は、人生でほかにはありません」

家主はヒロさんの作品に関心を示すわけでもなく、それでいて画材は全て購入してくれた。3カ月が経ち、出席率の関係で大学に戻ったヒロさんは、専攻を美術史に変えた。そこからは美術史家として文人画を中心に研究し、34歳でエバーグリーン州立大学に職を得ると、教え子たちの育成に情熱を注いだ。

エバーグリーン州立大学で教える学生の共同作品の前で。奥右端に立つのがヒロさん(2001年)

ヒロさんが学生に美術を教えるに当たり、何よりも心を砕いたのは、アンビギュイティー(ambiguity)の本質をわかってもらうこと。「日本語に訳すのは難しいのですが、何も考えずにあいまい(vague)にしておくこととは違うのです。アンビギュイティーはその真逆で、科学のように明確な答えのない事象を追究した結果、到達するもの」

パリのモンマルトルにある、ピカソのアトリエ跡地を訪問(1996年)

それは描く側も見る側も同じだ。ヒロさんは「美術に携わる者の業」と表現する。人生はアンビギュイティーの連続で、二元論では捉え切れない。その状態を面白がることは、学ぶ上で必要な心構えだとヒロさんは力説する。

「どうして自分はこの絵に引かれるのか、答えを自分で見つけてほしい。美術には、宗教、政治、経済、その時代の全てが映し出される」。画家の生きていた世界と画家自身の人間性が反映されている、そういう視点から絵を通して自分自身を見つめる作業。答えは、自らが手探りで探らなければならない。それは教える側にも言える。

「たとえば、これが答えだと教えてしまうと、やること全てがそれに向かっていく。何かを学ぶのに答えを求めてはいけない。そうでなければ学ぶ意味がありません」。その瞬間、ありのままの自分を見つめること。それが答えであり、美術の真髄なのだとヒロさん。

かつて絵を描いていたからこそ出る言葉なのだろう。「どう表現できるかは、描いてみないとわかりません。頭の中で思っていてもダメ。描いているうちに、色、絵の具、筆、キャンバスが反発してくるから。これは、自分と画材との闘いです」

絵と鑑賞者の対峙もまた続く。「モナ・リザはなぜ名画なのか」と、ヒロさんは学生に問う。ヒロさんの見解はこうだ。500年という年月をかけて、大勢の人がこの絵を前に気持ちが揺さぶられ、その気持ちが絵に吸収され、それが作品の一部になる。その数は今後も日に日に増え続ける。モナ・リザは現在も「豊潤さを蓄積するプロセス」にあり、見られ続けることで名画の重みを増していく。

一方、他人の評価や視線に耐えられず、画家の道を諦めた20代のヒロさん。「若い頃の僕は、自分に批判的でした。学者になってからも、自分が他人に与える影響ばかり気にしていました」

実家の温室で絵を描く日々が今につながる

80代となったヒロさんは、そうした葛藤とは無縁だ。誰の目も気にすることなく、好きな絵を描く。数年前からボタニカル・アートも習い出した。

ヒロさん作のボタニカル・アート。ローズヒップやピーマンのほか、しし唐、紫玉ネギなど、収穫した野菜を主役に

ヒロさんが生涯、愛してやまない絵画と植物。その原点は、幼少期にあった。「うちは江戸時代から続く庄屋でしたから、小作人たちが植える苗を管理する温室があったのです。幼い頃は祖母に連れられて、広大な温室で1日中過ごし、絵を描いていました」。3歳頃の記憶がおぼろげにある。「見渡す限り、緑でした。それだけは覚えています」

ヒロさんの父方の祖母、ナツさん(1964年)

父方の祖母、ナツさんは、小学校を出てすぐに女中としてヒロさんの祖父の家に奉公に出され、やがて跡取り息子である祖父と結婚。以降も、小作人としての立ち居振る舞いは抜けなかった。母親が病弱だったこともあり、4人兄弟の末っ子だったヒロさんは、そんなナツさんに育てられた。だしの取り方や魚のさばき方を教えてくれたのも、ナツさんだ。

ヒロさんは5歳の時、色覚異常と診断された。治療のため、宮崎大学美術学部の学生が雇われ、色遊びをするようになった。小学校の入学祝いはクレヨン。昼休みになると、ヒロさんはみんなと校庭に行かず、教室に残って窓にクレヨンで木や川などの絵を描いた。宮崎の太陽に照らされた窓ガラスは、熱い。「描いているうちに、クレヨンが溶けるんです。女中さんがいつもカミソリを持って駆け付け、あとで削っていました」

6年生になると、日本全国からヒロさんを合わせ5人の子どもの絵や習字が選ばれ、返還前の沖縄や香港の学校で展覧会が開かれた。文化交流使としてヒロさんも一緒に現地を回った。1952年、53年のことだと言う。1942年生まれのヒロさんに戦争の記憶はない。

ただ、15歳年上の長兄は違う。地元の超エリートで将来を嘱望され、江田島の海軍兵学校へと進み、特攻隊員になる訓練を受けた。しかし、出征を2週間後に控えて終戦を迎え、生きる目標を失ってしまったことで、つらい晩年を過ごしたそう。

長兄の武典さんと(1958年)

父親も、戦争に翻弄されたひとりだ。リベラルな思想の持ち主で、日本の軍国主義に対して批判めいた発言をしたところ、台湾に2年間「島流し」され、満州へと送られた。戦後は、前科者のレッテルを貼られ、事業を続けることもできずに、仕方なく自宅で書道を教えた。ヒロさんの名前は、平和と博愛から1文字ずつ取って、「和博」と書く。日本の家族との手紙は検閲されるが、軍部に悟られないように、命名に戦争反対の思いを込めたのだとヒロさんは後に聞かされた。

戦後、ヒロさんは自由な空気を吸いながら育った。若い頃は女性との同居生活も経験したが、30代半ばで銀行員だったビルさんに出会うと、正式なパートナーとして生涯を共にすることを誓う。芸術を愛し、世界中を旅行する同志だった。そこから40年の歳月が流れ、2021年、ビルさんは闘病の末に他界した。

自宅でビルさんと共にクリスマスを祝う(2018年)

気落ちするヒロさんを見かねて、ビルさんの成人した息子たちがボタニカル・アートのオンライン・クラスに招待する。自分が目指した抽象画は画家の個性ありきだった。しかし、ボタニカル・アートは誰が描いても同じでなければいけない。ヒロさんは、反骨精神がムクムクと顔を出し、実際にはない影を強調するなどして講師からたしなめられる。

ビルさんと3人の息子、その家族たちと。全員がヒロさんにとって家族のような存在

「自分の美意識がどこから来ているのか、それを追究したいですね」。まだまだやりたいことはたくさんある様子。そう語るヒロさんの眼差しには、少年の心が宿っていた。

 

川崎和博 : 1942年、宮崎県生まれ。九州大学医学部を中退して上京後、4年間はイラスト描きなどをして生計を立てる。父親の紹介でアメリカ人の商談に同行し、その縁で1965年にシアトルへ渡る。ショアライン・コミュニティー・カレッジからワシントン大学に編入し、油絵画家を志すも、美術史に転向。1972年に修士号を取得し、モンタナ州立大学で助手を務めながら、1975年に博士課程満期退学。1976年からエバーグリーン州立大学で約30年にわたり美術史を教える。その間、調査研究のため、金沢に2年、パリに1年滞在。2004年に退職してからは、世界各地を旅行し、趣味の料理と美術、野菜作りを楽しむ毎日を送る。

 

 *本稿は、「Soy Source」(2024年4月10日)からの転載です。

 

© 2024 Keiko Miyako Schlegel

アーティスト 芸術 世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 川崎 和博 移住 (migration) 戦後 シアトル 新一世 アメリカ合衆国 ワシントン州 第二次世界大戦
執筆者について

フリーランス翻訳家・通訳。外務省派遣員として、92年から95年まで在シアトル日本国総領事館に勤務。日本へ帰国後は、政党本部や米国大使館で外交政策の調査やスピーチ原稿の執筆を担当。キヤノン元社長の個人秘書、国連大学のプログラム・アシスタントなどを経て、フリーに転身。2014年からシアトルへ戻り、一人娘を育てながら、 ITや文芸、エンタメ系を始めとする幅広い分野の翻訳を手がける。主な共訳書は、金持ち父さんのアドバイザーシリーズ『資産はタックスフリーで作る』など。ワシントン州のほか、マサチューセッツ、ジョージア、ニューヨーク、インディアナ、フロリダに居住し、米国社会に精通。趣味はテニス、スキー、映画鑑賞、読書、料理。

(2023年9月 更新)

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