メキシコ福岡県人会の設立70周年記念誌を制作するにあたり、メキシコ日系移民史の記録者である荻野正蔵氏が、メキシコの「福岡県人」にまつわる数々の貴重なエピソードの寄稿してくださいました。ここでは、そこからいくつかのエピソードをご紹介したいと思います。
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1.初代福岡県人会会長 — 馬場藤吉
福岡県人会は1952年、中央学園に約30人の県人が集まって発足しました。会長は馬場藤吉さんでした。
彼の来歴はよくわかりませんが、メキシコの銀行や保険会社の仕事をしていました。サンフランシスコの邦字紙「新日米新聞社」のメキシコ支局長でもありました。
馬場の住所 Santa María La Ribera 12-5 が県人会の住所でした。彼は3年間、県人会の会長を務めると、あとを堤三吉さんに譲り、日本に帰りました。
彼の交際範囲はメキシコ人が主で、日系社会との付き合いは福岡県人会だけだったようです。当時の日本人にとって馬場は雲の上の人だったのでしょう。
2.日記「メキシコで 40年」— 県人会顧問・松下止(オハケーニャ移民)
県人会ができたとき、顧問を務めたのが松下止さんでした。彼はオハケーニャ移民でした。その後、時計店を経営し、公使館に働いたことがありました。戦争で公使一行が日本に引き上げたあと、一人で公使館の留守番をした人でした。
彼は「メキシコで 40年」という日記をつけていました。その日記は(福岡県)田主丸にある、とわかったので日本まで探しに行きました。園田さんという人が日記を持っていました。彼は松下さんのひとり息子でした。松下さんは田主丸で結婚したのですが、何かの事情で家族を残し、メキシコにやって来たのでした。彼は日記を日本に残してきた息子に送っていました。戦争が始まったときの様子などが詳しく書かれていて、第一級の資料でした。
松下さんはメキシコでも結婚していました。娘さんがいました。「父の書いた日記を返せ」というので、渡したところ、そのままになってしまいました。彼女も亡くなりましたから、日記は行方不明です。
3.県人会一筋 — 林田義雄(メヒカリの棉作農場経営者)
林田義雄さんは戦前、メヒカリで棉作農場経営していました。彼は堤与吉さんのあとを継いで県人会の会長になりました。5年間会長を続けました。林田さんはその後も県人会ひと筋でした。現在も県人会が見事に続いているのは、彼と7年間会長を続けた飯田利明さんの功績が大です。県人会のような組織は強力なリーダーが必要です。
県人会の新年会はいつも日墨会館で開かれていました。いつも大使館から領事が招待されます。前川征弘領事は7年間メキシコに赴任していた人でした。彼は「林田さんのサルーを聞かないと新年にならない」と言って、県人会の新年会は皆勤でした。林田さんは小柄でしたが、腹の底から響く「サルー」の声は見事なものでした。
4. 国境検問 — 堤重吉(デパートEl Nuevo Japón経営者)
昔、ロサンゼルスからメヒカリに車で入ったことがあります。夜中でしたから、国境検問をそのまま通り抜けてしまいました。翌日、El Nuevo Japónというデパートを経営している堤重吉さんに会いました。「検問を素通りして来たのはまずかったな」と言って、国境検問に連れて行ってくれました。「昨夜はよく眠っていたようだね」と言って、検問員にそっとペソを手渡しました。
それからというもの、堤さんとは折にふれ会う機会がたびたびありました。メキシコシティに嫁いだ娘さん宅に来られると、「呑みに来ないか」と連絡があります。彼はジョニーウォーカー赤ラベルが好きでした。お金持ちですが、こっちがいいと言って、黒ラベルは呑みません。 明申会に出ると、決まって歌うのは「夕空晴れて秋風吹き……」という歌でした。故郷を思いながらの歌は、心に沁みわたるものがありました。
5.三木武夫首相との友情 — 大塚為安(チワワ州ナミキパ村の医師)
チワワ州のナミキパ村に大塚為安さんが住んでいました。本業は医者でしたが、大きな農園を持っていました。医者といっても、どこで勉強し、どこでタイトルを取ったのかわかりません。しかし、村では名医でした。
スペイン語に流暢で、日曜のミサでは神父より彼の話がうまい、と評判でした。ライオンズクラブの会長で、銀行の役員でもありました。彼は一時、パンチョビヤを暗殺しようとした男と一緒に鉱山で働いていたことがありました。
戦前、大塚さんはメヒカリに住んでいたことがあります。その頃、ロサンゼルスに留学していた三木武夫(のちの首相)が国境を越えてよく遊びに来ていました。貧乏学生でしたから、大塚さんと芝山宅五郎さんは家に招待して、ご飯を腹いっぱいご馳走しました。
後になって大塚さんの奥さん(メキシコ人)が亡くなったとき、三木首相は昔の恩を忘れず、「後妻にどうか」と、日本女性を紹介してくれました。大塚さんは彼女と結婚し、日本に住むことにしました。新しい仕事は、浜松にあるホテルの通訳でした。ホテルではメキシコからマリアッチをよんでいました。彼は恰幅がいいものですから、ホテルの社長とよく間違われました。
*本稿は、日墨協会のニュースレター『Boletín Nichiboku』(No. 259、2022年12月)からの転載です。写真はすべて荻野正蔵氏より提供。
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