ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

若松コロニー:第2回 カリフォルニアで夢を追う — 新天地目指した柳澤佐吉

第1回を読む >>

若かりし頃の柳澤佐吉(山口香奈子さん提供)

若松コロニーにいた柳澤佐吉は戸籍によると1848年(嘉永元年)7月13日に生まれた。若松コロニーには20〜21歳ごろからいたと思われる。本籍地は群馬県碓氷郡坂本町となっており、横浜市史には南品川三丁目の伊勢屋長蔵のせがれと記されている。

日米新聞1934年6月24日付に佐吉の長女・米(よね)のインタビュー記事が掲載されており、父から聞いた話として米が伝えるには、佐吉はシュネル一行に加わり渡米し、若松コロニーがあったエルドラド郡では生活に苦労した様子が語られている。

若松コロニー崩壊後、佐吉は一時日本に帰国しており、1875年には内務省勧業寮の内藤新宿試験所で桃の缶詰の試作に携わっている。米国での農業経験と知識を買われての採用だったようである。

『サンフランシスコ・エグザミナー』紙1902年7月13日付の記事によれば、佐吉は日本に帰る時、日本の役に立つよう近代的な農業用具を待ち帰っていたようだ。しかし、カリフォルニアで夢をかなえるため再び渡米を決意する。

佐吉はサンフランシスコのチャイナ・ミッションで、当時中国人や日本人に宣教活動をし、後にサンフランシスコに設立された日本人キリスト教団体「福音会」の形成にも携わるオーティス・ギブソン牧師から洗礼を受け、キリスト教に改宗する。ギブソン牧師は1882年の中国人排斥法に真っ向から反対の声を上げた当時としては数少ない人物の1人であった。

佐吉は福音会の活動に加わっており、1882年には会計も務めている。同団体には寄宿舎があり、当時サンフランシスコの日本人学生の生活支援や職業の紹介なども行っていたようだ。

西洋料理店で撮られた日本人ウエイターの写真。佐吉の店の可能性もあるが人物は不明(山口香奈子さん提供)

「父から佐吉はカリフォルニアのワイナリーで働き、レストランなどもやっていたと聞いています」と話すのは佐吉のひ孫にあたる松藤章子さん。

「女学雑誌」の中でも佐吉はカリフォルニアのワイン王と言われた長澤鼎(かなえ)がいたソノマ郡サンタローザのファウンテングローブのぶどう園に3年間いたと話している。当時ここには多くの日本人が働いていたようだ。

1892年にはオークランドで西洋料理店を開店。日本人で初めてオークランドにレストランを開いた人物として知られ、その後はサンフランシスコでもレストランを開店した。


名簿に日本人23人の名・追跡取材で足跡明らかに

アルバムの中にあった佐吉の写真(山口香奈子さん提供)

若松コロニーにいた入植者でよく名が出てくるのは佐吉のほか、おけい、桜井松之助、増水国之助、大藤松五郎などが挙げられる。

横浜市史には若松コロニーの一行と思われる23人の日本人の名簿が記されている。それには佐吉と妻・なみ、松五郎(上総武射郡八田村)のほか、林斎と妻・トキ(同)、金太郎(同郡津田村)、新治郎と妻・エチ(同郡小池村)、喜太郎と妻・ミツ(陸中伊達郡岡村)、市之助(北品川商三丁目太七倅)と妻・クキ、松之助(上総武射郡小池村百姓出稼)、亀次郎と妻・トメ(浅草諏訪伝蔵店出稼)、大次郎と妻・センと息子・正吉(東京下谷坂本二丁目長左衛門店)、新吉(南品川門前徳三郎店)、長蔵(南品川三丁目繁治郎店出稼)、常吉(南品川商長蔵倅)、市五郎と妻・シン(上総武射郡八田村)の名がある。

彼らは、旅券を発行した際の記録となる外交史料館所蔵の「航海人明細鑑」の中で若松コロニーの一行とされている20人とも名前が一致している。

「航海人明細鑑」の中で若松コロニーの一行とされている20人のリスト。「横浜市史」の中の若松コロニーの一行と思われる名簿にもこの20人の名前がある(外交史料館所蔵)

松之助という人物の名前も名簿にあるが、「上総武射郡小池村百姓出稼」となっており、会津藩の元侍とされている桜井松之助と同一人物なのかは名簿に苗字がないため不明である。一方、松五郎は大藤松五郎の戸籍上の本籍地と一致している。

横浜市史によると、当時シュネルが横浜で運営していた会社の従業員だったケルムルが米国に男15人、女8人の計23人を連れて行くことになっており、駒形町の兼次郎という人物が人々の斡旋をしていた。報酬は男1人につき金50両。雑費はケルムルが支払う契約になっていたが、ケルムルから彼らへ支払われるはずの食糧費が支払われていないとして兼次郎が1869年4月22日にケルムルに対し訴訟を起こしている。

最終的には1879年6月17日までに185両が兼次郎に支払われ決着しているが、その間、23人のうち男3人、女3人が先に米国に行き、その後、1869年8月24日に残りの17人のうち14人が蒸気船ジャパン号で出発したとの記録がある。

また本紙(『羅府新報』)英語版2019年4月27日付ではコロニー崩壊後に日本に帰国した大藤松五郎について新たに分かったことを紹介した。松五郎は日本でワイン製造に携わり、ソニー創業者の盛田昭夫の先祖が開いたぶどう園などで働いた。

一方、松五郎の妻の名前は子孫にも知られていなかった。彼女は松五郎の妻であると同時に、約150年前に異国で子を産み育てた女性とされている。

子孫の家系図にも空白になっていた彼女の名前をなんとか歴史の暗闇から導き出すことはできないかと本紙では子孫である白石恭子さんと孫の菜織さんに戸籍の取り寄せを依頼した。2人にとって初めての戸籍請求となったが快く引き受けてくれ、松五郎の妻の名が「美わ(みわ)」であることが判明した。

本紙日本語版の2019年新年号でも紹介しているが、1927年の日米新聞には若松コロニーを知る老人ヘンリー・ビアキャンプが若松コロニーには「みわ」という女性がいたことを証言しており名前が一致していた。

かつて海を渡った入植者たちは今もカリフォルニアや日本のどこかで永遠の眠りについている。

インターネットもない時代、言葉も分からぬ異国に渡った入植者たち。一方、今では佐吉のやしゃご・山口香奈子さんのように、先祖に興味を持った子孫がインターネットで先祖について調べる時代になった。

こうして1人、また1人と歴史の中に埋もれていた先駆者たちが浮かび上がっていく。 

第3回 >>

 

*本稿は、『羅府新報』(2022年1月8日掲載)からの転載です。

 

© 2022 Junko Yoshida / Rafu Shimpo

California Sakichi Yanagisawa Wakamatsu Colony