ディスカバー・ニッケイ

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ハワイで医学プログラムをはじめて(英語)

(英語)ハワイに医学プログラム設立の話が持ち上がり、2年制のプログラムとすることが決まると、今度は学部長が選任されました。スタンフォードのウィンザー・カティング医師が選ばれました。大物ですね。私は彼に、外科の主任教授になるよう依頼されましたが、初めは断りました。ワシントン大学が過去に直面した問題や、ここで始める際に直面するであろう問題が目に浮かんだからです。 でも、彼は諦めず、私にこう言いました。「4年制の医学部を設立し、病院を作る」私は「どこに病院を?」と聞くと、「結核センターから短期治療用病院として使っていたリアイ病院に新しい病院を作る」と言いました。そして私は教授となり、医学部が新設されました。 学校は、2年制から始まり、後に4年制となりました。しかしながら、病院の設立が無理なことは分かっていました。それで私は、心臓外科手術に、より大きな喜びを見出すようになり、その辺りから全てが始まりました。


ハワイ 医科大学 アメリカ合衆国

日付: 2006年5月30日

場所: 米国、ハワイ州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

リチャード・タツロウ・マミヤ氏は1925年、ハワイ州ホノルルのカリヒ‐パラマ地域に生まれた日系3世です。4人兄弟の長男であるマミヤ氏は、心臓外科医として高い評価を得ています。ホノルルのセント・ルイス高校ではアメリカンフットボールと野球のスター選手で、ハワイ大学へはアメリカンフットボールの選手として奨学金を受け進学しました。学部生時代に、動物学の教授に医学の道に進むよう勧められ、ミズーリ州のセント・ルイス大学で医学を学びました。ミズーリ州で医学の教鞭をとった後、家族と共にハワイへ戻り、ハワイ大学医学部の創設者の一人として設立に携わりました。1970年にはハワイ初の冠状動脈バイパス手術を行い、当時まだ発展途上であった小児心臓外科手術分野の発達に寄与しました。

1995年、マミヤ氏は外科医療から正式に引退しましたが、自身が立ち上げた2つの財団を通し慈善事業を継続しています。リチャード・T・マミヤ慈善財団(The Richard T. Mamiya Charitable Foundation)は、ハワイ州全土での人道活動や慈善事業の支援に貢献し、ハワイ医学図書館(Hawaiian Medical Library)を拠点とするマミヤ伝承図書館(Mamiya Heritage Library)には、広範囲にわたって集められた現地の医学資料が置かれています。(2007年5月11日)

スタン・サカイ

家族に認められたこと(英語)

漫画家(1953年生)

ハーブ・オオタ

エド・サリヴァンの「ザ・オールネイビー・ショ-」への出演(英語)

ハワイ出身のウクレレ奏者(1934年生)

ハーブ・オオタ

『Song for Anna』(英語)

ハワイ出身のウクレレ奏者(1934年生)

ハーブ・オオタ

日本での演奏(英語)

ハワイ出身のウクレレ奏者(1934年生)

ロバート・T・フジオカ

アメリカ軍に捕らえられた祖父(英語)

ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)

ロバート・T・フジオカ

日系人としてハワイで育つ(英語)

ハワイ生まれの元銀行幹部職員(1952年生)