Keiko Fukuda

Keiko Fukuda was born in Oita, Japan. After graduating from International Christian University, she worked for a publishing company. Fukuda moved to the United States in 1992 where she became the chief editor of a Japanese community magazine. In 2003, Fukuda started working as a freelance writer. She currently writes articles for both Japanese and U.S. magazines with a focus on interviews. Fukuda is the co-author of Nihon ni umarete (“Born in Japan”) published by Hankyu Communications. Website: https://angeleno.net 

Updated July 2020

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アメリカの日本語媒体

第1回 1989年創刊『Lighthouse』 在米邦人の生活情報誌

読者の課題解決のために

筆者が渡米したのは1992年。今も暮らすロサンゼルスで当時発行されていた日本語の紙媒体は、『羅府新報』、『Gateway USA』、『US Japan Business News』、『TV FAN』、『Bridge USA』、『Lighthouse』だったと記憶している。そして、私は渡米半年後に『Lighthouse 』に入社することになり、そこで独立するまでの11年間、編集者として働いた。私にとっての在米日本語媒体は、アメリカに残る道を与えてくれたという意味で思い入れのある存在であり、数多の新しい媒体が誕生しては消えていく中、今も発行を続けているサバイバーには尊敬の念を禁じ得ない。そこで、ロサンゼルスに限らず、全米各地で発行されている媒体の編集責任者や担当者に、それぞれの媒体の生き残りの策について聞いてみようと思い立った。その第1回では私の古巣でもある『Lighthouse』。同誌編集長、東條憲太郎さんにご登場いただく。

『Lighthouse』が創刊されたのは1989年、コンセプトは「在米日本人のための生活情報誌」だ。記事は2本の特集、インタビュー、グルメ、教育、税金、移民法、エンターテインメント、コミュニティーのイベント、クラシファイドと多岐にわたり、情報として読ませるタイプの記事広告も多い。現在は発行部数5万部のロサンゼルス版以外にも、サンディエゴ版、シアトル・ポートランド版、ハワイ版も発行しており、その他に提携誌のシカゴの『Q』マガジンに記事を提供している。

編集記事の柱は東條さんによると3本。「『課題解決』、『勇気、元気』、そして『うるおい』を与えることです。具体的には『課題解決』の記事では、どうやってアメリカの大学に進学するかなどといった悩みを専門家に取材した情報を通じて解決に導くこと、また『勇気、元気』はアメリカで活躍する人物を取材し、彼らの成功談や苦労話を伝えることで読む人に勇気と元気を与えること、そして『うるおい』は旅行やレストランなどのお出かけの情報を提供して生活に潤いを与えることを目指しています。最近はインターネットで情報が簡単に手に入る時代です。そこで、『Lighthouse』でないと入手できないような記事にすることを常に念頭に置いています。少し前に掲載した『アメリカの防犯』という特集記事を例に挙げると、治安のデータやヘイトクライムのニュースなどネット上に断片的には転がっていても、それを多角的に構成してその特集記事だけで今のアメリカの防犯面で知っておくべき状況を把握できる内容にまとめられたと思います」。

読者に求められている記事にするために読者調査を定期的に実施しているだけでなく、特集記事は読者の要望に加え、編集部員とさらに30名ほどの全社のスタッフで意見を寄せ合って、1年分を事前に決定している。ちなみにロサンゼルス版は月に2回発行、しかも1号に2本の特集記事が掲載されるので、1年分の特集企画は約48本という計算になる。

スマホで読めるアプリ開発

次に特集記事を企画する際の鍵を聞いた。「老若男女、どの読者層からも面白いと思ってもらえるような誌面にすることです。例えば2019年の2月1日号を例に取るとメインの特集は『メトロで遊ぼ!』、サブは『リタイヤ後は日本の地方で暮らす』です。他の雑誌にはないだろうなと思うほど、1冊の中での振り幅が大きいんです(笑)」。日本で発行している雑誌のように、女子高生向けのファッション雑誌、ビジネスマン向けの経済誌などと細かくセグメント分けしてしまうと、ただでさえ多いとは言えない在米邦人の読者層をさらに狭めてしてしまう。そこで「日本語が読める」「アメリカで生活している」という共通項だけの幅広い読者層にアピールする記事を作成することが同誌のチャレンジであり、同時にやりがいであるとも言えるようだ。そして、「世界の片隅で発行されている無料のコミュニティー誌ながら、ガッチリと作っているという自負はあります」と東條さんは話す。

さらに、1年前に新たな試みを開始した。同誌の記事がスマートフォンで読めるアプリの開発と提供だ。2020年8月にローンチし、読者数を広げることに貢献している。「スマホのアプリをダウンロードしてもらうことで、実際の雑誌をピックアップしなくても本誌が読めるようにと、アプリの認知を上げることに力を入れています。情報誌をiOSやAndroidのアプリにするにはさまざまな条件があり、審査も厳しい。私が知る限り、在米日本語媒体は今はうちだけのはずです」。

さらに、『Lighthouse』の母体であるTakuyo Corporationは、日本での終活の情報をアメリカ在住者に提供する事業や、アメリカから日本の大学に進学を希望する学生に向けてセミナーや情報を提供する事業など多角的にビジネスに取り組んでいる。それらの事業の告知を『Lighthouse』の特集記事や自社広告で紹介することで、それらのサービスを多くの在米日本人に告知できると共に、『Lighthouse』誌自体も読者に有益な情報を提供できるということで、Win-Winの構造になっている、と東條さんは話す。

続いて、東條さんに自己紹介をしていただいた。「編集者歴は20数年になります。日本の大学卒業後に編集プロダクションに入社し、リクルートやベネッセをはじめさまざまな雑誌やウェブサイトから仕事をいただいていました。そこで基本的な編集者のスキルを習得した後、リクルートに広告制作ディレクターとして常駐。さらにウェブメディア『All About』で3年ほど企画の仕事に携わり、アメリカに来ました。『Lighthouse』に入社したのは2012年です」。

最後に編集者として大切にしている姿勢や考え方について聞いた。「モットーは、誤字脱字も含めて情報の正確性を大事にしたいということです。文字が間違いだらけの媒体だと本当にその情報が正しいかどうかも疑わしくなり、信頼性に関わります。また、これは我々が掲げるメディア事業のミッションステートメントなのですが、『読者である在米日本人の方々の安心、充実、チャレンジングで豊かな人生の実現に貢献する』ということは、迷ったら立ち返る原点として常に念頭に置いています。あとは、無料のコミュニティー誌だからといってダサい必要はないと思っており(笑)、デザインに関してもなるべくスタイリッシュに、『ライトハウスってちょっとおしゃれでいいな』と思っていただけるような誌面を目指しています」。

老若男女と全方位を対象にした日本語雑誌、しかもロサンゼルスやサンディエゴといった地域限定の情報も提供するというハードルを乗り越えなければならないものの、絶妙なバランス感覚をベースに構成されているコンテンツこそが、『Lighthouse』のサバイバル策の肝と言えそうだ。

 

*『Lighthouse』: 電子版とアプリのダウンロードのサイト

 

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1989年渡米、日本の書道と心をアメリカに広める藤井良泰さん

基礎の積み重ね

ワシントン州シアトルを中心に、ポートランド、ロサンゼルス、東京にも教室を置き、書道を教える藤井良泰さんが渡米したのは1989年だった。当時の目的は、ワシントン大学とミシガン大学で教えることになった師匠、明石春浦さんの「鞄持ち」だったと振り返る。91年には、大学だけでなくアメリカにも常設の教室を開いてほしいとのリクエストに応える形でシアトルに明石書道教室を開設、そこを藤井さんが任されることになった。以来30年、アメリカの地で指導した生徒の数は数千人に及ぶ。

しかし、失敗も経験した。最初にワシントン大学のエクステンションコースの書道クラスを担当した時のこと。いかに学生たちを飽きさせないかに腐心したあまり、「受けを狙う」教え方となった結果、30人いた学生が10回の講義で最後は12人にまで減ってしまったのだそうだ。

「まだ当時、27歳だった私は若かったこともあって、新しいことをやれば受け入れてもらえるだろうと考えていました。しかし、基礎の積み重ねが必要なのだと気付き、次のクオーターでは方針を転換しました。最初に失敗したことが、その後の指導において非常に役立ったと思っています」。

それから、アメリカで書道を広める上で基本に忠実であることに加えて、藤井さんは何よりも「日本の正しい書道を教える」ことを念頭に置いている。

「30年以上前、アメリカ人の書道を見た時に、基本から離れてしまい、まるでショーのようになっているという印象を抱いたことがあります。例えて言えばクラシックの基礎を勉強しないで演奏をしている音楽家のようなものです。ただただ、自分の感性を作品にぶつけることを重視するあまり、純粋な日本の文化とは遠い存在になっていました。私は指導者として、(書の)根本となる漢字をしっかりと教えていきたいと思いました」。

95年、師匠の明石さんが日本で逝去した。藤井さんには日本に引き揚げるという選択肢もあったが、腰を落ち着けてアメリカで書道を教えていくため、グリーンカードを申請した。

「私の仕事は日本文化に携わるという特性がありますから、その枠で申請し、取得しました。ロシア出身のバレリーナと同じ申請枠です(笑)」。

引き揚げはしなかったが、東京にも生徒を抱える関係で、パンデミックの前まではひと月のうちの1週間を東京で、そして残りをシアトルでという生活を長らく送ってきた。また、対面式がかなわなかったパンデミック下での指導について聞くと次のように答えてくれた。

「(生徒に)動画を送ったり、生徒さんが書いているところを、ビデオチャットを通じてやりとりしたりしました。作品は好きな時間にメールしていいと伝えていたために、夜中に送られてきたりするので、その度に(告知音で)目を覚ましたりしました(笑)。昔のように離れていては絶対に指導が成り立たなかった時代とは違い、今はzoomやFaceTimeといったテクノロジーのおかげでやりとりができます。その結果、パンデミックの間に教室に通えないことから離れていく生徒の数を最小限に止めることができたと思っています」。

日本に新風を吹き込みたい

こうして過去30年以上にわたり、日米を往復しながら書道を広めてきた藤井さんに、それぞれの国の良いところを聞いた。

「書道に関してですが、アメリカの良いところは、生徒に日本のように漢字などに対する先入観がないので、ゼロから出発することができるということです。思い込みがない分、飲み込みが早いです。そして、アメリカの生徒さんを見て素晴らしいと思うのは、他の生徒の成果を心の底から一緒に喜ぶことができることですね。逆に、日本に対しては、アメリカの良い点を日本にも導入しようと提案すると『それはアメリカの考え方で日本では通用しない』と随分言われてきました。ですから、自分が50歳を過ぎて、(毎日)書道展の審査員を務めさせていただけるようになってから、日本でも少しずつ発言する機会が増えたように感じています。日本では改革することが悪いことのように思われることがあり、日本に対しては、その点であまり良い印象を抱くことができません」。

しかし、もうすぐ60代を迎える藤井さんは、パンデミックが収束したら以前よりも頻繁に日本に足を運び、日本の書道界にも新しい風を吹き込むべく努めたいという意気込みを語っている。

次にシアトルの日系社会について印象を聞いた。

「30年前は、まだ一世の方々が存命でしたし、多くの二世の方が社会で活躍されていました。さらにアメリカ人との結婚で渡米された日本人女性が大勢いました。今みたいに日本との行き来が簡単ではなかった分、お互いが協力し合っていました。私も当時は諸先輩方にアメリカ生活の様々なことを教えていただきました。そう言えば、我が家のドライブウェイに生えていた草を玄関先に置かれたことがありました。抜かれて放置された草を見た時は嫌な気持ちでしたが、それを置いた日系人の方は『家の前は綺麗にしなさい』ということを私たちに教えたかったのだということが後で分かりました」。

将来的にはアメリカ市民権を取得する計画なのか、最後に聞いた。

「2人の子どもたちはアメリカ生まれで、アメリカ社会で生きています。私たち夫婦は、アメリカのパスポートを取ったとしても日本人には変わりないとは思いながらも、やはり(日本の)国籍にしがみついて生きていきます。日本から来た私たちがアメリカで日本の書道を教え続けるということが大事なのだと思います。そして、書道を通じて日本の心を伝えていきます。例えば、私は教室を出る時に、教室に向かってお辞儀をします。それを生徒たちは真似します。彼らはまた、教室に上がる時は靴を綺麗に揃えます。そういう礼に始まる心をアメリカ人の生徒さんたちが美しいと思ってくれることを誇りに思っています」。

書道を教えるだけではない。日本の心もアメリカに伝え、日本には新しい風を吹き込んでいく。藤井さんの益々の活躍に期待したい。

 

藤井さんが運営する明藤書道会のウェブサイト:https://meitokai.net

 

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1992年渡米、目標は「アカデミー賞」— 俳優の井上英治さん

教師退職後にハリウッドへ 

自分の人生は、選択と決断と行動で作られる。自分がどういう人間になりたいか、何をしている時が幸せか、それが分かっていればその方向に進めばいい。現在56歳、ハリウッドで30年の経験を持つ日本人俳優、井上英治さんは「世界を相手に自分の演技を表現できる役者になりたい」と思っていた。その心の声に従って、彼は教師という安定した職業を辞めて1992年2月にアメリカに渡って来た。

「周囲の人間の99.99%が僕の渡米に反対でした。親は僕に何かが取り憑いていると思い込んで、祈祷師の所に行ったほどです。中学時代はバレーボール、高校では陸上、さらに中国武術と次々にスポーツに取り組んだ僕は、ジャッキー・チェンに憧れ、アクションスターになりたいと思うようになりました。大学を出てからは4年間、岐阜の高校の教師を務めました。教師という仕事に対しては情熱を持っていました。でも、26歳の時に自分にとって(アメリカで役者に挑戦する)タイミングが来たと感じたのです」。

90年の夏には退職を申請し、教師の退職説明会に参加した。周囲は引退を前にした高齢の人ばかりで英治さんだけが若かったと振り返る。しかし、あくまで本人は「26歳の自分がこれからアメリカで役者に挑戦するには年齢的には若くない。遅い」と思っていた。そして、学生ビザを手にロサンゼルス空港に降り立つと、その日本とは180度違う雰囲気に圧倒されたと振り返る。

「その時が初めてのアメリカだったんです。それまで海外は中国にしか行ったことがありませんでした。下見には来なかったのか?下見という考え自体、頭にはありませんでした。当時、インターネットはないし、ポケベルの時代です」。

頼りは名古屋で知り合いになったロサンゼルス在住の日本人ダンサーのノリちゃんだけ。ノリちゃんに紹介された語学学校に籍を置き、ロサンゼルス市内のボーディングハウスに落ち着くとほどなくしてロサンゼルス暴動が勃発した。部屋の窓から人々がスーパーの食料品を持ち去る光景を英治さんは目の当たりにした。

「僕のアメリカ生活がスタートしました。車を買ったら騙されてすぐに壊れてしまい、次に買った車もダメでお金を無駄にしました。知り合いから買わないと騙されるんだということに気付き、3台目は友達の友達から購入。77年のトヨタ・セリカでしたけど、あれにはかなり長い間乗っていました」。

英治さんはアメリカ生活のスタートと同時にエキストラの仕事も始めた。しかし、活動を続けていく上での問題はスクリーンアクターズギルド(SAG AFTTRA、映画俳優組合)への加入とグリーンカードだった。渡米後すぐに訪ねた先は、ハリウッドスターのショー・コスギさんの事務所。英治さんはショーさんが岐阜を訪問中に滞在先を探し当て、本人に会ったことがあったからだ。そして、事務所で迎えてくれたショーさんにアドバイスされたのが「グリーンカードがないとアメリカでは働けない。英語を習得するのに10年はかかる。(自分に弟子入りしたくても)アメリカには徒弟制度はない」ということだった。しかし、一つ目の組合への加入は、渡米した年の年末にコカコーラのコマーシャル出演が決まったことで実現した。さらにグリーンカードは、永住権抽選プログラムに応募して、幸運なことに渡米2年後に当選、手にすることができたという。

渡米の決断は正しかった

それからは着実にキャリアを積み重ねていった。日本食レストランAmagi、コメディクラブのLaugh Factoryや Comedy Sore、キャバレーでのショー、スタント、TVコマーシャル、日本語と英語による舞台などを経て、映画でもメジャー作品の『パールハーバー』、北野武監督作品『BROTHER』、アダム・サンドラー主演の『クリック』に出演、そして『ラストサムライ』では真田広之とやりとりする役を演じた。

そして私が「真田広之のような日本のスターとハリウッドで共演してさぞや感慨深かったのでは?」と英治さんに聞くと、彼は「これは驕りではないんですけど、日本のスターと言われる人に対しても僕の中には全く気負いがありません。俳優の仕事が一種の技術職のような感覚で、現場を共有するプロ同士、仲間のような意識でしたね」と答えた。

むしろ感慨深かったのは、前述のコカコーラのコマーシャル出演が決まった時だと言う。「1回、2回、3回とオーディションを勝ち上がっていって選ばれた時は本当に嬉しかったです」。しかもそれが渡米した同じ年の出来事だというのだから、そのスピード感には驚かされる。テレビドラマでは98年にFOXの『ブルックリン・サウス』で全米デビューを飾った。

しかし、15年前に壁にぶつかることになる。「突然、オーディションに呼ばれなくなったのです。自分でも理由がよくわかりませんでした。そこで10年ほどは、映画を専攻する学生の卒業制作のインディーズ系作品に出演していました。いい作品であればそれがメジャーでなくても出たいという気持ちでした」。

その傍らで、スポーツクラブなどで武術、太極拳、ヨガ、キックボクシングを指導するインストラクターの仕事を続けた。そして、3年前、キャスティングディレクターの奈良橋陽子さんとの出会いをきっかけに、再びメジャー作品のオーディションに挑戦するようになったと話す。

将来の目標を聞くと、英治さんは「アカデミー賞のベストアクターを受賞することです。それも『将来受賞したい』と長期的な目標に掲げているわけではなく、『来年受賞する』というくらいの意気込みです。つまり、自身をそのくらいのエネルギー状態に持っていくことで、実現させてみせる、実現させることができると感じています」と答えた。

英治さんが渡米した30年前とは、ハリウッド映画におけるアジア人のポジションやイメージは様変わりした。2020年には韓国映画の『パラサイト』がアカデミー賞のベストフィルムに輝いた。今の時代なら、英治さんの長年の取り組みに光が当たる日が、とてつもない将来ではなく彼自身も話すように近い将来訪れるかもしれない。

最後に「渡米を決めた30年前の自分に、今の英治さんから何と言ってあげたいですか」と聞くと、彼は口元に笑みを浮かべて次のように言った。「『よくやった。その決断は正しかった』と言ってあげたいです。あの時の僕は親を投げ飛ばしてでも(笑)、渡米を決行しなければならないと思っていました。自分に嘘はつきたくなかったんです。そして、今、自分の思い描いた通りになりました。あの時の決断は間違っていませんでした」。

 

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Choices for Japanese People Living in America

1991年渡米、日米に拠点を置く生活 ー 清水瑛紀子さん

渡米当時の覚悟は「絶対に日本に戻らない」

清水瑛紀子(あきこ)さんは1990年代からアメリカと日本で活動している風水コンサルタントだ。もともとの仕事はIT関係。日本からドイツ勤務を経て、1991年以降、アメリカで生活していた。しかし、現在は主に日本を拠点にして、ロサンゼルス郊外の住まいに時々戻ってくるという生活スタイルだ。19歳の時に初めて来たアメリカに自由と可能性を感じ、アメリカに住みたいという願いを実現した彼女だが、再び日本に拠点を定めた理由と、日米を往復する中で見えてきたことについてzoom取材で聞いた。

「若い頃の自分は、日本ではブラックシープのように感じていました。日本は皆に合わせないといけないし、女性に能力があっても男性社会では引き上げてもらえない。夜10時になると他の男性は働いているのに、私は帰るようにと促されました。でも内心はもっと働きたいと思っていたんです。ところがアメリカに来て、自分が自分らしく生きられる場所を見つけることができました。女性であることも、年齢も関係ありません」。

渡米当時はITの仕事で日系企業に勤めていた。永住権を取得後に紆余曲折を経て、2001年からはロサンゼルス郊外の在米日系メーカーのITコンサルタントを2019年まで務めた。その傍らで興味を持って学び始めたことをきっかけに、後に副業として続けていた風水の鑑定と講師の仕事の量が増えていった。

「2003年から、風水のセミナーを開催する目的で日本に来ました。当時は年に2回くらいでしたね。私はそれまでに日本を10年以上離れていたので、日本の現状を知る必要があったし、市場開拓を地道にしなければいけないという思いで、飛行機代や宿泊費で赤字になっても毎年日本に通い続けました」。

2012年にはついに東京に住居を構えた。「その頃には2カ月に1回は、風水講座を開催するために東京に通っていました。ホテル住まいではなく家があると気分的にも楽になったし、国内で仕事が増えこと、多くの出会いがあったことなどで日本がいいなと思うようになったんです。アメリカに渡った時は絶対に日本には戻らないという覚悟だったのに」。

2020年はコロナの影響で日米の往復が自由に行えなかったこともあり、オレンジ・カウンティーの持ち家を売却する手続きで滞在した以外はほぼ日本で生活していたという。

引き揚げるなら日本でのベース作り必要

では、アメリカ永住を覚悟していた瑛紀子さんが、日本に拠点を移すことになった理由は何だろうか。「まず、現実的なことで言うとアメリカの高騰する健康保険料ですね。私は保険を使わないのに、それでもアメリカでは月々12万円ほどの保険料を払っていました。それから、私がアメリカに来た頃に感じたワクワクするエネルギーを最近は感じられなくなったということ」。

アメリカ生活では色々な人に助けてもらったと振り返る。「最初は英語ができなかった私は苦労しました。仕事の上での苦労も経験し、人間的に逞しくなれたと思います。でも、年月が経ってみると、日本の方が暮らしやすいということに気付きました。それに今、風水の生徒さんの多くやクライアントが日本の人なので、彼らがいる場所で活動するのが効率的です。昔感じた息苦しさも、今の日本には感じません。時代が変わったこともあるし、私自身も変わったのでしょう」。

それでは、今後、アメリカに限らず海外から日本への引き揚げを考えている人に瑛紀子さんがアドバイスするとしたら?「まず、自分が何をして生活していくのかをしっかり考えることです。そして、自分でやろうと思っていることで、日本で現実的に生活できるのかを見極める必要があります。すぐには無理でも、日本でのベースを作るために、私のように時間をかけて準備することをお勧めします。突然、引き揚げようと決心して日本に帰っても、ゼロからのスタートだと何もできません。土台作りは重要です。一方で、アメリカで不動産を持っているなら、それを売却して現金を作って、日本での生活費用に充てればいいと思います。アメリカの不動産は立派な投資になります。アメリカで不動産を持っていることは、一つのアメリカンドリームを意味していると思います」。

年齢的には何歳くらいまでに引き揚げるのが理想かと聞くと「できるだけ早い方がいいかな、60代くらいまでには引き揚げるなら実行してしまった方がいいでしょう」と瑛紀子さん。

前述の健康保険の費用や昔のような息苦しさがなくなったこと以外にも、日本の良さを次のように挙げた。「日本の料理は本当に美味しいです。料理の種類も多いし、安いし、チップもいらない(笑)。もともと居酒屋が好きだったんですが、日本の居酒屋は最高です。本場で食べる日本食がやっぱり本物だって実感しますね」。

最後にアメリカに未練はないのかと聞いてみた。「今はもう日本でやっていくと決めているけれど、アメリカに長く住んで働いて本当に良かったと思います。私が海外に出ることなくあのまま日本にいたら、決断のできない人任せの、平凡な人生を歩んでいたと思います。それに行動しなかった自分にずっと後悔しているはず」。自分らしい生き方を発見し、風水という天職にも出会うことがアメリカ生活を経て、今後は東京を拠点に風水の活動をアジアで拡大していく予定だそうだ。

清水瑛紀子さんのウェブサイト:https://lit.link/akikoshimizu

 

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滞米40年後の京都暮らし — ラナ・ソーファーさん

日米を往復するきっかけは米国の政治情勢の変化

ラナ・マリコ・ソーファーさんが渡米したのは1975年。ラナさんは、ロサンゼルスを拠点に主に機内上映の映画の字幕、さらには吹替の制作に長年携わってきた。私の自宅から近いこともあって時々、一緒にランチする仲だったが、そんなラナさんが京都にも拠点を設けて日米を行き来していることを知ったきっかけはSNSだった。聞けば、2017年に彼女は転機を迎えていた。

「まず、長年ロサンゼルスで生活していた姉がポルトガルに移住することを決断しました。もともとヨーロッパに仕事で行くことが多かった彼女は、いつか現地に住んでみたいと思っていたようです。ちょうどその頃、トランプ政権になったアメリカで、イスラム教徒に対して入国規制(ムスリム・バン)が敷かれました。私たち夫婦はイスラム教徒ではありませんが、それでもこの先、アメリカは一体どうなってしまうんだろうという不安に駆られました。そこで国外に逃げ場所を作ろうと主人が言い出して、すぐ動けるように自宅を売ることにしました。その時は日本から呼び寄せていた父が既に亡くなっていたのですが、2017年9月、母も亡くなってしまいました」。

2017年、姉の移住計画、政治情勢の変化、母の逝去などさまざまな要因が重なったことで、ラナさんと夫のダニエルさんはアメリカの国外に目を向けるようになったのだ。

「私はまだ日本国籍者のままなので、行き先は日本になりました。他の国だとビザ取得が面倒なこと、そして両親が住んでいた京都にアメリカから何度も訪ねていたのですが、いつかゆっくりと京都を見て回りたいと思っていたことが理由です。父が京都の中でも嵐山が好きだったこともあり、私たちは嵐山で家を購入しようと探し始めました。しかし、何歳でもローンを組むことが可能なアメリカとは違い、日本ではある程度の年齢になるとローンを組めないのです。キャッシュで購入できる家となると限られてくるし、購入したいと思うほど惚れ込むような家に出会えず、結果的に賃貸にしました。それでもびっくりするほど安くて、その家賃くらいはずっと仕事をして稼いでいこうと思っています」。

ラナさんがこっそり教えてくれた家賃は、不動産価格が高騰を続けているロサンゼルスでは「あり得ない」安さだった。そこで気になるのは「保証人」だ。40年ぶりの日本、家族も住んでいない場所で貸家の保証人はどうしたのだろうか。「医者だった父のクリニックで働いていた方が保証人になってくれました。父が大阪のクリニックを閉めて、京都で雇われ医者として働いていた時も度々訪ねてくれて、私も帰省した時に会っているんです」。しかし、多くの場合はやはり保証人には家族や親戚が条件になるようだともラナさんは付け加えた。「私たちには日本でのクレジットヒストリーがないから、保証人は重要です。貸主には家賃を前払いすることも申し出ましたが、それは受け付けられないと言われました。お金を払って、その家をアジトにして事件を起こすといったテロリストの可能性が考えられるからだそうです」。

将来は息子がいるアメリカに戻る

こうして2018年から、京都の貸家を拠点に定め、京都生活では難しい趣味のサーフィンを楽しむために時折ロサンゼルスに戻るという生活が始まった。往復するようになって見えてきた日本の良さ、またアメリカの良さについて聞いてみた。

「日本は何と言っても治安がいいですよね。京都の家の周辺には、無農薬野菜などの無人販売をしている家が多いんです。主人がその光景を最初見た時は『盗まれるよ』と言ってました(笑)。それから長年の課題だった健康保険。日本で病院に行くと、初診で千円なんて言われて、その安さに驚きます。あとは運転ですね。年齢とともに運転が億劫になって、特に夜の運転が苦手になりました。日本だと電車、バス、それにタクシーと自分が運転しなくていい選択肢がたくさんあります。反対に、日本で疑問に思うのは障害者向けのアクセスが十分でないことです。10年前に比べれば駅などにもエレベータが整備されるようになりましたが、そのエレベータも車椅子で入るには狭すぎたりして、そういう点が私はすごく気になります」。

アメリカの良さについてはどうだろう。「75年にアメリカに行った時に、カリフォルニア州の知事はジェリー・ブラウンでした。日本の政治家と違って魅力的で、しかも身近に感じましたね。とても感動しました。それにアメリカは国民が直接、大統領を選べることも大きな違いです。アメリカにいると自分が社会に参加している、参加することで何か変えられると実感できます。それがアメリカの魅力ではないでしょうか」。

さて、新型コロナウイルスのパンデミックの渦中にあった2020年、ラナさんは6月から11月までロサンゼルスに滞在した。その間、アメリカ人に課せられていた出入国の規制状況の先行きが見通せなかったために、夫のダニエルさんは一人で京都に留まったそうだ。「ダニエルは30年の歴史がある『Kyoto Journal』という英語メディアにボランティアとして携わっています。時にはフォトグラファーとして、また時にはデザイナーとして。ボランティア仲間はその多くが京都在住の外国人です」。

ラナさん自身も新しい友達作りに熱心だ。「現在、以前から興味のあったテキスタイルについて学ぶために京都芸術大学の通信科に籍を置いています。通信科だとアメリカに帰った時に講義を受けられると思ったからです。対面式のクラスもあるので、新しい友達ができました」。大学以外でも、お寺の庭師や仏師(仏像専門の彫刻家)など、京都という土地柄から日本の伝統文化の専門家に巡り合う機会に恵まれていると話す。

このように京都での生活を満喫しているラナさん夫婦だが、日本を終の住処にするかというと、どうもそうではないようだ。「子どもがいなければ京都にずっと住むでしょうね。でも私たちにはニューヨーク在住の息子夫婦がいて、今年の夏には孫が生まれる予定です。今回のパンデミックで感じたのは、家族のそばにいることがいかに大切かということ。だから、ある程度、京都で生活したら、やはり私たちは息子がいるアメリカに戻ることになると思います」。

これまで取材してきた人たちと同様、ラナさんもやはり最終的には「子どもがいる場所」で生活したいと話す。その時までできるだけ長く京都での生活を楽しんでほしいと願うが、私が願うまでもなく、zoomの画面の中の彼女の笑顔から充実の日々が透けて見えた。

 

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