Keiko Fukuda

Keiko Fukuda: Oriunda de la prefectura de Oita, egresada de la Universidad Internacional Cristina. Trabajó para una editorial de revista informativa en Tokio. En 1992 viajó a los Estados Unidos y trabajó como jefe de edición en una revista dedicada a la comunidad japonesa durante 11 años. Es freelance desde 2003 y actualmente escribe artículos para revistas focalizándose en entrevistas a personalidades. Publicó junto a otros escritores “Nihon ni Umarete” (nacido en Japón), Editorial Hankyu Communications. Sitio web: https://angeleno.net

Última actualización Julio de 2020

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アメリカの日本語媒体

第6回 1990 年創刊『いろは』- ダラス日系社会密着型の月刊新聞

地元日系組織との連携

ダラスで発行されている無料の日本語新聞『いろは』の名前を聞くことは度々あった。しかし、カリフォルニア在住の筆者にとっては、どのような媒体なのか、中身を知る機会がなかった。その理由は同紙が地元の日系社会密着型であり、地域外に向けて情報を発信していないからだということが、発行人の上田誠さんの話から分かった。2021年8月現在、電子版の発行はしていない。

『いろは』が創刊されたのは1990年。今から30年以上前のことだ。ダラスの鉄板料理レストランのシェフとして渡米した上田さんは、その後、キャリアを変えてカメラの修理の仕事に携わった。そのような異業種からなぜメディア発行人に転身したのか、その経緯が興味深い。

「ダラスに日系の食料品店があって、そこのオーナーが常連の顧客に宣伝目的で郵送していたダイレクトメールに記事をプラスして、ニュースレターを作成してくれないかと頼まれたのが最初です。送られたものが広告だけでは見てもらえないからというのがその理由でした。やったことないからできないと断ったのですが、あくまでも『いや、できるはずだ』と言われて、そこまで言われたので『じゃあ』と引き受けることにしました。レターサイズで8ページ。日本語のワープロを日本から友達に送ってもらって、それで原稿を入力して切り貼りして作成していました。最初から今と同じ月刊でした。当初は食料品店のオーナーが広告主を紹介してくれていましたが、そのうちに自分でも広告を取るようになって、2、3カ月で収支がトントンになりました。そして2年後にはカメラの修理の仕事を辞めて、『いろは』の専業になりました。その背景にはカメラの修理が以前のようにお金にならなくなったことがあります。次々に手頃な新しいモデルが出てくるので、わざわざ修理に出す人が減ってしまったんですね」

こうして、未経験だったメディアの仕事に本格的に携わるようになった上田さんは、ダラス日本人会や日米協会、さらには日本人補習校との関係性を強化しながら、地元社会のニュースを取り上げ続けた。現在のコンテンツは、地元社会のニュースを中心にダラス在住者による多数のエッセーからクラシファイド、日米のニュースまでカバーし、読み応えがある。発行部数5000部、サイズはタブロイドで16ページだ。

「ダラスの日本人社会の規模から考えると、競合紙が生まれても共存できる市場ではないことから結局、うちの新聞だけが生き残りました。今までに5、6紙は創刊されたと思いますが、そのタイミングに合わせてうちの新聞の紙の質を良くしたり、カラーにしたりして対策を立てました。トヨタがダラス近郊のプレイノに移転したのは2017年くらいですが、残念ながら日本人社会の規模はそれほど大きくはなっていません」。

トヨタ移転とともにテキサスの日本人の人口が急増したようなイメージがあるが、上田さんによると、必ずしもそうではないということだ。だからこそ、前述のような以前からある地元の日系組織との連携が、同紙の基盤作りの大きな要因になったのだと上田さんは強調する。

営業、取材、会計まで1人

「ダラスの補習校のイベントの写真撮影は30年以上任されています。最初は自分の子どもも補習校に通っていました。そこで、入学式や卒業式といったイベントが開催されるたびにお声がかかって、私が出かけて行き、撮影しました。それからダラスの補習校とヒューストンの補習校で毎年、ソフトボールの試合を恒例で行うんですが、その撮影もずっと担当しています。このように、ダラスでは地元の日系社会密着型でないと生き残っていけません。ダラスの日米協会や日本人会のイベントも取材に行きます。読者からしたら、そのイベントに行くことができなかったけれどどんな様子だったか知りたい人が多いはずです。一方で、イベント参加者で紙面に載った自分の顔を見たいという人もいます」。

こうして、上田さんはフットワーク軽く取材に出かけるのだと話してくれた。さて、スタッフは何人なのだろうか?そんな筆者の質問に上田さんはさらりと「私一人です。一時期、事務的なことを知り合いにお願いしたことはありましたが、基本的に営業、企画、取材、撮影、執筆、デリバリー、会計まで一人でやっています。会計は嫁さんに手伝ってもらいますが(笑)」と答えた。

営業に関しては、上田さん独自の信念があるようだ。「広告の効果がないだろうなというところには、広告を出したいと言われても断ることがあります。日本人のお客さんが欲しいからと言ってきますが、『日本人にあなたの店はアピールしません』とはっきり言います」。

このように自らの信念を貫きながら、たった一人で30年以上、ダラスの日本人社会に支持される媒体を発行してきた上田さんに今後の予定を聞いた。

「新しいことを始める予定はあるか?いやあ、もう引退させてくださいよ(笑)。でも、この仕事のやりがいは今も、読者が新聞を見てどこかに行ったとか、誰かとつながったと聞くたびに実感します。発行が遅れると電話をかけてくる読者もいます。でも、そういう声が聞きたいからやっているのかと言うと、そうではなくて、人にどう思われようと自分が好きだからやっているんです。新聞発行人のポリシーとしては、個人攻撃や誰かの害になるような情報は絶対に載せないということです。私は文章を習ったわけではないし、誤字脱字もあるかもしれないけれど、それでも読みたい人がいることに感謝しています」。

上田さんの飾ることがない正直な姿勢が、『いろは』が長らくダラスの日系社会で信頼を勝ち得ている理由に違いないと確信してオンライン取材を終えた。

 

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アメリカの日本語媒体

第5回 1992年創刊『U.S. FrontLine』 - 全米をカバーする情報誌

広大なエリア、幅広い層の読者

これまで紹介してきた日本語媒体は、ロサンゼルス、シアトル、ニューヨーク、サンフランシスコのいずれか、または複数の特定の地域にフォーカスしていたが、今回紹介する日本語の無料誌『U.S.FrontLine』は、日本人コミュニティーが存在する全米の多くの地域に配布されている。

「カリフォルニアのロサンゼルス、サンフランシスコ周辺、ニューヨークの3地域での配布数が最も多く、それ以外にもジョージア州アトランタ、イリノイ州シカゴ、オハイオ、さらに数年前にカリフォルニアからトヨタが本社を移転させたテキサスなど、全米各地の日系企業が多いエリアに配布しています。読者は基本的に日本からの駐在員ですが、その枠にとどまらず、ビジネス情報、教育、法律、健康、旅行、エンターテインメントまでをカバーしているので、アメリカ在住の日本人読者の幅広い層に読まれています」と説明してくれたのは、同誌編集長の齋藤春菜さん。

同誌がユニークなのは全米をカバーする媒体という点だけでなく、裏表紙からは中国語の別の雑誌が始まる、2種類の雑誌が合体している点だ。その中国語の雑誌『J-goods』は、在米中国人向けに日本の商品や文化を紹介するもの。数年前からの『J-goods』との合体によって、全米の中国系マーケットにも『U.S. FrontLine』は配布されることになった。

私の記憶では、『U.S. FrontLine』の本社はかつてニューヨークにあった。その時は現在のレターサイズより大判で、かなり長い間、週刊誌として発行されていた。その後、同誌はIT企業の傘下に入り、本社をロサンゼルスに移転、現在は隔月刊誌となり、毎号32ページから40ページのボリューム。雑誌自体の発行が2カ月に1回、また誌面が限られていることもあり、雑誌に収まりきらない情報や最新のニュースや告知などは頻繁に更新されるウェブサイトに掲載されている。

雑誌のコンテンツは、毎号数ページのテーマを絞った特集記事、他にエッセー、教育、英会話といったアメリカ生活に関する連載コラムだ。読者に人気があるのはどのような記事だろうか。「雑誌から人気記事がどれかを知るのは難しいのですが、オンラインの記事での閲覧数から見ると、教育関係の記事への関心度が高いようです。他にも、移民法や雇用ルールに関する記事など日系企業にとって重要な情報は多くの方に見ていただいています」。

紙媒体のメリットとは? 

特定の地域にフォーカスしていない全米版の媒体であることから、「今、アメリカで何が起こっているのか」というテーマを取り上げることが鍵になると齋藤さんは話す。「特集企画は、営業を含む雑誌に関わっている3、4名で話し合って決めています。常にオリジナルで新しい情報を読者に届けるように心がけています。世の中の動きや注目度の高いテーマは何かをよく見て、たとえすでに知られているような情報であっても違う角度から切り込むことで面白いと思ってもらえるように、飽きられないように工夫しています」。

また、親会社がIT企業であり、IT、メディア以外に人材紹介、会計アウトソーシングの事業も行っていることから、「今後は弊社の他事業部のスタッフが持っている専門知識も、誌面に応用していきたいと考えています」とのことだ。

前述のように『U.S. FrontLine』の場合、雑誌だけでなくより豊富で最新な情報が掲載されているウェブ版も運営しているが、全てをウェブにする計画はないのか齋藤さんに聞くと、次のように答えた。「雑誌は“これ(特定の記事)を見たい”と思った読者に手に取ってもらえるものです。毎号読んでいただいている読者は雑誌をピックアップすることが習慣になっているので、確実にその情報を届けることができます。一方で、オンラインの世界では、人々は自分が欲しい情報を検索して不特定のウェブサイトにたどり着くので、必ずしも『U.S. FrontLine』のサイトに来てくれるとは限りません。ウェブだけに絞ってしまうと読者を限定してしまうことにもなってしまいます。時代の流れとしてはウェブに完全移行するという考え方もありですが、そのためにはデメリットを克服できるような運用方法を精査する必要があると考えています」。

さて、斎藤さん自身もまた、同誌の読者と同様に「アメリカで生活する日本人」の一人だ。「アメリカで働きたいと思って、今の仕事に応募して、2017年6月に入社しました。もともと日本の出版社で雑誌の編集をしていました。日本では8名くらいの編集スタッフで雑誌を作っていたのですが、現在は、雑誌もウェブ版も編集作業は基本的に私一人で行っているので、以前より責任重大です」。

編集者としては、常に四方にアンテナを張り巡らせている。「広告のクライアントである日系企業の方にお目にかかる機会も多いので、その際には日系企業にとって何が関心事なのか、何が周囲で起こっているのかについてお話を伺うようにしています。あとは、アメリカのニュースはもちろんですが、日本のニュースもオンラインで追いながら、最新のトレンドに遅れないように努めています」。

全米をカバーする日本語の無料情報誌は『U.S. FrontLine』を置いて他にない、唯一無二の存在だ。これまでに形状や発行頻度含めて、何度か「変身」しながら発行されてきた同誌の今後を、ウェブ版との共存や棲み分けも含めて見守っていきたい。

『U.S. FrontLine』公式サイト:https://usfl.com

 

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アメリカの日本語媒体

第4回 1999年創刊『週刊ベイスポ』— ベイエリアで愛される週刊紙

SFの無料媒体の先駆け

最近、フェイスブック内のコミュニティー、「在米日本人」を覗くことが多い。そのコミュニティー内でよく見かける投稿が、「●●エリアに引っ越します。現地のお勧めの日本語情報誌を教えてください」というもの。南カリフォルニア在住の筆者にとって、それがロサンゼルスの話ならすぐに私からもお勧めの媒体を書き込めるのだが、同じカリフォルニアでもベイエリアの日本語媒体事情には正直疎い。そこで、一方的に傍観者的に見ているわけだが、ベイエリアのお勧め日本語メディアとして現地在住者から挙げられるのが『週刊ベイスポ』だ。発行人の小野里晃さんに話を聞いた。

「『週刊ベイスポ』は1999年に創刊しました。サンフランシスコやシリコンバレーを含むベイエリアに毎週2万部発行しています。読者は全方位の老若男女です。この地域には日本人が5万人から6万人在住していると言われています」。

創刊のきっかけは、「野茂英雄の試合を見るためにロサンゼルスに通っていた時に目にした『日刊サン』」だと小野里さんは振り返る。『日刊サン』と言えば、ロサンゼルスで発行されているスポーツとエンターテインメントを中心にカバーする日本語新聞だ。「1995年当時、ロサンゼルスに来るたびにあの新聞を読むのをとても楽しみにしていたのです。サンフランシスコにもこんな新聞が欲しいとずっと思っていました。そこで、私自身が発行人となり、日刊ではなく週刊にして、スポーツと芸能、ローカルのトピックを掲載する週刊紙として誕生させました」。

それまで、ベイエリアは有料媒体の天下だった。「ロサンゼルスには『ライトハウス』や『ブリッジUSA』、そして『日刊サン』のような無料紙がありましたが、サンフランシスコで読まれていたのは『朝日新聞』、『北米毎日』、『日米時事』といった有料のものばかりでした。今まで生き残ることができた秘訣?日本のスポーツと芸能の情報に関しては日本のスポーツ新聞社と提携して入手、また時事ネタは通信社から購入しました。こうすることで日本の最新情報を掲載しながら、(人件費などの)コストを下げることができたことが大きかったと思います。日本の情報を読みたいという読者のニーズにもマッチし、さらに先ほど申し上げたように、他に日本語の無料紙がなかったこともうまく受け入れてもらえた要因だと思います」。

その後、インターネットで日本のスポーツと芸能情報を入手できるようになると、『週刊ベイスポ』もコンテンツに変化が見られるようになった。より地元の生活情報に紙面が割かれるようになったのだ。「現在ではレストラン情報はもちろん、クラシファイドに至るまで生活情報全般をカバーしています。今、読者からよく読まれているのは、商業開発や犯罪に関することなど、ローカルのトピックです。肩に力を入れずに、ベイエリアで今何が起こっているのかを気軽に日本語で読んでもらえるという点に需要があるんじゃないかと分析しています」。

情報が集まってくる 

2021年現在は「ベイエリアに『週刊ベイスポ』あり」と定着した人気を保持しているが、ここに来るまでの苦労談を聞こうとすると、小野里さんは次のように答えた。「苦労したのは、創刊当初の半年間です。無料なのにピックアップしてもらえない、ピックアップしてもらえないから広告を集めるのも難しいという悪循環に陥っていました。しかし、手に取ってもらえるようになると、あとはもう読者の方にとっては(ピックアップが)習慣となり、ずっと今に至ります。ただ、パンデミックの間はやはり大変でしたね。広告の出稿主の事業が大変な状況で、広告どころの騒ぎではなくなりました。そこでうちのスタッフがクライアントのところに出向いて何かお手伝いできることがないか、と関係性を維持することに努めました」。

大変な時も出し続けることが大切なのだと小野里さんは言う。「長くやっているので、自然とうちに(ベイエリアの日系社会の)情報が集まってくるのです。また、シリコンバレーはグーグルやアップルの本社があり、非常にビジネスが活発なエリアです。日本からの人がどんどん当地に移住してきます。コロナまでは、日本人人口が増え続けていました」。

さらに、小野里さんの会社では出版社として、年一度、ベイエリアの生活情報をまとめたムック『eじゃん』も発行している。今後のビジョンを聞くと、「オンライン化に本腰を入れていきます。紙面の情報を電子版としてサイトで見られるだけでなく、ウェブサイト独自のコンテンツも拡充していく予定です」と、エリア外の読者にとっても楽しみな計画を話してくれた。

小野里さんは最後に、創刊しようとしていた22年前のエピソードに触れた。「野茂の試合をロサンゼルスに見に行っていた時に、リトルトーキョーの一人しゃぶしゃぶの店がお気に入りだったんです。それで、『週刊ベイスポ』の創刊準備で日本のスポーツ新聞社と話を詰めていた時、なかなかいい返事がもらえなかったので、新聞発行は諦めて、サンフランシスコでしゃぶしゃぶの店を開けようかと方向転換しようとしていました。そんな矢先、スポーツ新聞社が返事をしてきてくれたために、しゃぶしゃぶ屋の方はやめました。あの時、もし、しゃぶしゃぶの方に進んでいればビジネスとしてはもっと儲かっていたかもしれないですね(笑)。でも、やっぱりメディアで良かったと思っています。色々な人と出会える楽しい仕事だし、何より現地の日本のコミュニティーから求められているという実感が得られますから」。「小野里さんがしゃぶしゃぶビジネスに進まなくて良かった」、そう思っているのは本人以上にベイエリアの読者たちに違いない。

公式サイト『週刊ベイスポ

 

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アメリカの日本語媒体

第3回 1902年創刊『北米報知』アメリカで現存する最古の日系紙

9割が英語の紙面に

アメリカで最も古くから発行されている日系新聞は、ワシントン州シアトルに拠点を置く『北米報知(The North American Post)』だ。ただし、創刊時の紙名は『北米時事(The North American Times)』であり、その創刊は1902年に遡る。古くから日系社会が形成されていたシアトルで、最初の発行人である隈元清氏ほか数名の1世たちが立ち上げた同紙は戦前までは邦字日刊紙として発行部数約1万2千部を誇っていた。地元シアトルだけでなく、ポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち展開していたそうだ。

しかし、第二次大戦時に幹部がFBIに連行されるなどで1942年3月に廃刊。発行の中核を担ったスタッフが街に戻ってくると、『北米時事』の政治色は抑えられ、コミュニティーのための告知メディアにそのコンセプトを一新して『北米報知』として再創刊された。その後、日本語を読む日系1世の人口減少と共に購読者も減っていく一途だったが、1988年、シアトルを中心にノースウエスト地域に日本食マーケットを展開する宇和島屋の社長(当時)トミオ・モリグチ氏が発行人として名乗りを上げた。こうして歴史ある日系新聞の存続が維持されることになった。そして、日系人の世代の変化に合わせて、2005年に無料配布を開始、2017年以降は大幅に英語のセクションを増やし、現在では紙面のうちの9割が英語紙面で、3世以後の日系・アジア系アメリカ人をターゲットに据える新聞に生まれ変わった。現在の発行は、月2回で部数は月に1万5000部だ。

一方で、2012年には1992年創刊のシアトルの日本語情報誌『ソイソース』を買収。これによって、North American Post Publishing Inc.は、日系人向けには『北米報知(The North American Post)』、そして日本人向けには『ソイソース』という2種類の媒体の発行元となった。

このような歴史について教えてくれたのは、現在『北米報知』の編集長兼ゼネラル・マネジャーを務める室橋美佐さん。室橋さんに「どのような記事に人気があるか」について聞くと次のように答えた。

「日系3世もすでに50代、60代となりリタイヤする時期を迎えています。仕事も終えた彼らにとって次に向く関心というのが、ファミリーのルーツなのです。ですから日系のファミリーの歴史に関する記事が特に人気です。そうした記事の取材対象を探すのに苦労はありません。シアトルの日系コミュニティーの結束は強く、皆知り合いです。特に広島や熊本などの県人会やシアトル別院仏教会などの日系教会、またワシントン州日本文化会館やDenshoなどの非営利団体も活動が活発で、そうした団体で皆さんのつながりが保たれています。コロナの時期は新年会などのイベントは中止となりましたが、普段は私もそのような団体のイベントに参加させていただいています。ワシントン州日本文化会館は、1902年に創立された国語学校の校舎を活用して日系文化を若い世代へ伝えています。Densho(伝承)は、ファミリーヒストリーの口承を記録する映像、写真、古新聞などのデジタル保存を行っている団体です」。


日系人と邦人の橋渡し

日系人たちの家族の歴史に関する記事は、前述の姉妹紙の『ソイソース』に日本語に翻訳して転載している。「『北米報知』は日系人を対象にした媒体、そして『ソイソース』は日本人対象の媒体で、双方の情報を交換することで両者の架け橋になることを目指しています。日系アメリカ人のコミュニティーと日本人のコミュニティーは、近そうで遠い存在です。まず、言葉の壁があるということが一番の理由だと思います。日本人には日系人の歴史を伝え、日系人にも日本からアメリカに来て活躍している人のことを知らせることで、その間の壁を少しでも取り払いたいのです。英語で書いた記事を日本語に、また日本語の記事を英語にして、互いの歴史だけでなく今抱えている問題についても知らせる意義はあるはずです」と室橋さんは、記事の転載でコミュニティー間のギャップを埋めることに今後も力を尽くしたいと話す。

しかし、問題はやはり経済面だ。「紙面の広告収入や購読費だけでは厳しい昨今、媒体以外にも収入の道を模索してきました。近年で特に好調なのが、日系アメリカ人を対象にした日本への旅行事業です。10年程前から始め、ここ数年で運営ルーティンが確立されてきて、リピート客も増え、しっかりと利益を出して運営できるようになりました。媒体事業は公共性が高いので、コミュニティーへの貢献と、収益を意識した経営とのバランスが常に課題だと思います。ゼネラル・マネジャーとしては、『北米報知』の歴史を続けていくためにも、収益を確保できる媒体運営も意識しています」。

北米報知財団というNPOも2011年に立ち上げられ、昔の記事をデジタルにアーカイブ化して、シアトル地域の日系の歴史を保存、伝承するというプロジェクトにも取り組んでいる。「日系移民の歴史保存や、その歴史を若い世代に伝えていくような非営利事業は、こちらの北米報知財団で行政支援やコミュニティーからのドネーションを受けて活動していきます」と、室橋さん。

ところで北米最古の日系紙として、今後も紙の印刷にはこだわっていくのだろうか?「インターネットの情報と紙の情報とはその特性が異なります。インターネットの場合は、見る人がキーワード検索などで自分が欲しい情報だけを入手します。しかし、紙の媒体の場合は、新聞を手に取ることで見る人が意図しない情報を伝えることができるのです。まだ紙媒体の存在意義はある、と信じています」。

そして、2022年、『北米報知』は創刊120周年を迎える。「創刊120周年企画の一環として、『「北米時事」から見るシアトル日系移民の歴史』という連載記事が5月にスタートしました。おじいさまがシアトル在住の日系人だった日本の方が、戦前の日系社会について『北米時事』のアーカイブ記事を読んで執筆してくださっているものです。オリジナルが日本語の記事を、全米日系人博物館のプロジェクト、ディスカバー・ニッケイとのコラボレーションによって英訳もしています。さらに日系アメリカ人の歴史に関するオンラインセミナーも、120周年に向けて更に多く開催していきたいです」。

室橋さんは、以前はシアトルで『Ibuki』という誌名の日本文化を英語で伝える雑誌を発行していた。その後、育児に専念していた期間を経て、4年前に『北米報知』の編集長兼ジェネラルマネージャーに就任した。今後も経営面と編集面の両方に目を配りながら、同時に日系人社会と邦人社会の橋渡しにも寄与してほしいと願う。

 公式サイト
・『北米報知
・『ソイソース

 

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アメリカの日本語媒体

第2回 2004年創刊『週刊NY生活』- 独自取材を続ける無料紙

読者がいる限り

ニューヨークを中心に米国東海岸で2万部発行されている日本語媒体の『週刊NY生活』は2004年創刊。アメリカ生活が長い人は、同紙の歴史が20年も経っていないことを意外に思うかもしれない。筆者もその1人。理由は同誌の発行人兼CEOの三浦良一さんと社長兼COOの久松茂さんが共にアメリカで発行されていた『読売アメリカ』出身であり、『読売アメリカ』の印象が色濃く感じられるせいだ。筆者自身、90年代、勤務先に送られてくる『読売アメリカ』の生活情報からエンタメ、アメリカの動向までバラエティー豊かな記事を読むのが毎週の楽しみだった。

今回取材に応じてくれた三浦さんは1985年に読売新聞が米国現地版(後の『読売アメリカ』、当時の名称『ニューヨーク読売』)を発行するのに伴い、それまで勤務していたロサンゼルスの経済新聞から転職、2003年に『読売アメリカ』が撤退するまで同紙の編集部記者、そしてデスクとして勤務した。しかし、同紙の撤退が決まったときに「読者がいる間は日本語の情報紙を届けたい」との気持ちから久松さんと共に起業したのだと言う。

「大判の新聞サイズからタブロイド版に変わった以外は、『週刊NY生活』の内容面はかなり『読売アメリカ』を踏襲しています。読者は駐在員、留学生、永住者が混在しています。その点、以前いた西海岸には日系アメリカ人が多かったですが、ニューヨークでは日系の方にほとんどお目にかかることはありません。ですから、いずれは日本に帰る読者が多いこともあり、帰国受験などの教育関連の記事に人気がありますね。他はビザや健康に関する記事も注目されます。鍵は読者にとって必要な情報でありながら、『ニューヨークタイムス』などの英語の媒体では取り上げられないもの、そして日本語では読めない情報を提供することです。そのために、どんな小さな記事であっても、自分たちで取材して執筆しています。読者が他で目にすることがない独自の記事が掲載されているという点が強みであり、私たちの記事を見て大手の日本のメディアから問い合わせをいただくことも少なくありません」と、三浦さんは『週刊NY生活』の「独自取材」に自信を見せる。

それでは一体、何人で取材しているのだろうか、との質問をぶつけると「4、5人の外部ライターさんに協力してもらっていますが、専属は私1人です」との回答だった。「もちろん全部私だけでやっているわけではありません。営業の人間が2人います。しかし、彼らは現在リモートワークなので、マンハッタンにあるオフィスに出勤しているのは私1人です。取材、執筆、編集作業以外に印刷所の立ち合いもあります。また、マンハッタン内の配達も営業の責任者と私とで担当しています」という話を聞き、「少数精鋭」という言葉が頭に浮かんだ。


今後は「老後の選択肢」を

次に『週刊NY生活』の紙面構成の上でのモットーを聞いた。

「起こったことをできるだけ早く正確に伝えることです。そういう役目を担っています。『これは伝えないといけない』という新しい情報以外に、『これを読んでもらうことで読者に喜んでもらいたい』という情報も掲載しています。後者に関してはアメリカで有名になった人のインタビューや、今は無名だけどこれから名を成すだろうという人のインタビューなどです。できるだけ早く正確に、と言いましたが、週刊なので日刊ほどのスピーディーさはありません。しかし、35、6年続けている仕事を通して、ずっと週刊紙に携わってきました。水曜に印刷して木曜に発行するというリズムが体に染み付いているんですね。これ以外のスケジュールに変えるとしてもどうしたらいいのか分からないというのが正直なところです(笑)」。

発行を続けることの苦労を聞くと、編集長であると同時に発行人でもある三浦さんは次のように答えた。

「そこはやはり広告収入ですね。日米間の旅行を扱う代理店やホテルなどのクライアントが、このパンデミックの時期、厳しい状況でした。でも、コロナが収束すればまたビジネスが始まります。またうちのサービスを利用してください、という広告を打たないといけなくなるはずです。その時期に備えて、とにかく発行を続けるということが私たちの使命です」。

さて今後、新しい企画を開始する予定はあるのだろうか?

「これから高齢になってくると、日本に帰る(引き揚げる)読者が増えてきます。帰国に役立つ情報や、また自分はまだでも日本の親が介護施設に入ることを海外から心配している読者のための情報の提供に力を入れていきます。さらにアメリカで老後を迎える可能性がある場合、ここでどのような選択肢があるかについても取材していきます。実際に読者からの要望も寄せられています」。

日本への帰国に関しては、すでに『ふるさとプロジェクト』と題し、オンラインセミナーを開催している。

アメリカで暮らす人々のために日本語で情報を届けること、経済紙時代も入れれば40年超の三浦さんに「編集者としてのやりがい」を聞いた。

「伝えることの喜びですね。それが支えになっています。紙面を通じて情報を伝えることで、救われる人もいるだろうし、喜んだり悲しんだり、また社会とのつながりを実感してもらうこともできるでしょう。ですから、私の仕事のモチベーションは自分のためと言うよりも、読者が見てくれることの喜びです」。

その言葉は「伝えること」を生業にするライターの私の胸に深く響いた。


* 電子版が読める『週刊NY生活』公式ウェブサイト

 

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