Keiko Fukuda

Keiko Fukuda nasceu na província de Oita, se formou na Universidade Católica Internacional e trabalhou num editorial de revistas informativas em Tókio. Em 1992 imigrou aos EUA e trabalhou como editora chefe numa revista dedicada a comunidade japonesa. Em 2003 decidiu trabalhar como ¨free-lance¨ e, atualmente, escreve artigos para revistas focalizando entrevistas a personalidades.  Publicou junto a outros escritores o “Nihon ni Umarete” (Nascido no Japão) da editora Hankyuu Comunicações. Website: https://angeleno.net 

Atualizado em julho de 2020 

media ja

アメリカの日本語媒体

第10回 1975年から2010年まで発行・日系文化を育む雑誌『TV FAN』

日本語テレビ番組を紹介

私が初めてフリーランスのライターとして活動を開始したのは2003年、原稿を書かせてもらった雑誌の名前は『TV FAN』だ。以降、同誌の最後の発行人となった竹内浩さんが2010年に発行を止めるまで原稿を書かせてもらった。そして休刊後、日系のイベントに行くと、「『TV FAN』はもう発行されないのですか?」と読者から度々質問された。あれから11年経ち、今はもうさすがに聞かれることはなくなったが、質問されていた頃は「『TV FAN』は随分と熱心な読者に支持されていたのだ」と改めて実感したものだ。

竹内さんを「最後の発行人」と書いたのは、彼の前に2名の発行人がいたからだ。創刊は1975年。故塚原孝吉さんが、ロサンゼルスで放送されている日本語テレビ番組のプログラムを紹介する雑誌として世に送り出した。当時、日本のテレビ番組の放送局は4社あったそうで、インターネットもない時代、日系社会の人々はドラマをはじめとする日本の番組を楽しみに日々を生活していた。ドラマの放送時間には、リトルトーキョーの街から人の姿が消えてしまったと聞く。

それらの番組紹介を記事にして載せた『TV FAN』では、日系社会の歴史を辿るコラムも人気を集めた。テレビ番組の詳細が分かると同時に、自分たちが暮らす日系社会について深く知ることができる日本語雑誌として、塚原さんの後を継いだ故片桐信行さんが発行人の時代も同誌は熱心な読者に支えられた。

そして、竹内さんが片桐さんからビジネスを買い取ったのが1998年。それまで日系企業の米国現地法人の代表を務めていた竹内さんだが、親会社の倒産により、新たなキャリアを模索する必要性に迫られた。そして、選んだ仕事が、若い頃に映画批評を書いていた『TV FAN』の3代目発行人だった。

現在は引退してサンディエゴ近郊に住む竹内さんに「なぜ、雑誌の発行人になろうと思ったのか」と聞くと、「日本の大学生の時代にキネマ旬報という雑誌でアルバイトをしていました。そういう経験から、もともと編集という仕事に興味があったのかもしれません。私が発行人になった当時は、テレビ紹介は4、5ページ程度。あとは(エッセーの)書き手の方が7、8人いました。オフセット印刷から輪転機に変え、ページ数を増やし、発行部数も1万5000部にしました」と答えた。

その頃、すでにテレビ紹介がメインのコンテンツではなかったのになぜ雑誌名を『TV FAN』のままにしたのだろう?その疑問には「あまりにも深く、『TV FAN』という名前が読者の間に浸透していたのです。ですから、いじって変えない方が良いと判断しました」との返答だった。


日系人の人生に光を

竹内さんの代からは新しい試みもスタートした。「日系社会で活躍した人の業績を紹介する『人に歴史あり』という企画や、また3世以降の日本語を理解しない新世代の日系人のために英語のページも設けた。比較的、年齢層が高かった読者に向けて「遺産」をテーマにした特集記事を組んだこともあった。その号は配布後瞬く間にさばけ、「どこに行ったら入手できるか」との問い合わせの電話が多数寄せられたと竹内さんは話す。

雑誌の発行と並行して、「市民権発行の手引き」「Japanese names for baby」といった単行本の権利を取得し、日系書店でも販売した。さらには日系人に関わりのある書籍を日本の出版社から取り寄せ、誌面で広告を打つとかなりの手応えを得た。「執筆者の渡辺正清さんの本などは、広告を出すと200部近く売れました」と振り返る。

さらに、竹内さんには『TV FAN』を通じて叶えたい夢があった。「作家を一人育てたいと思っていました。それは実現しませんでしたが、うちに数回投稿した方の作品が文藝春秋社の『人間はすごいな ‘11年版ベスト・エッセイ集』に掲載された時は、自分が育てたわけではないけれど良かったなと思いました」。そして同誌は、TV番組紹介、エッセーや特集、人物インタビュー、料理以外に、短歌や俳句の投稿コーナーも設け、キャッチフレーズの「日系文化をはぐくむ月刊誌」としてのカラーを益々強くしていった。

しかし、2000年以降は日本からの進出企業の数が減り、広告収入で成り立っていた無料雑誌としては経営的に厳しい状況に立たされるようになった。無料配布以外にも全米に800人の定期購読者を抱えていたが、「読者の年齢層が高いことから、日本語を読める読者の数が時を経るにつれて減ることはあっても、増えることはありません」。そして、竹内さんは2010年、休刊を決断することになった。

『TV FAN』を12年発行した経験から何を得られたかを聞いた。「日系人の生き方についての理解が深まりましたね。私は有名な人だけでなく、名もない人にも光を当てて、その人生を誌面で紹介してきました。そして、嬉しかったのは、シカゴの博物館から、日系社会の記録として『TV FAN』を全号譲ってほしいとの依頼を受け、誌面で読者に呼びかけたところ、1975年の創刊号から360冊保管していた人が2人いたことでした」。

読んだら処分される情報誌ではなく、何度も読み返したい「残る雑誌」として愛された『TV FAN』。執筆者として10年近く携わった私も、その期間の全号を本棚に大切に保管している。

 

continue a ler

media ja

アメリカの日本語媒体

第9回 2000年開設『びびなび』全米33カ所、世界展開のオンラインメディア

参加型の媒体 

これまで本シリーズでは、全米各地で発行されている新聞や雑誌など紙媒体の編集責任者に取材してきた。しかし、インターネット社会の今、紙媒体以外に、オンラインのみで運営している「日本語媒体」にも焦点を当てるべきだろう。この原稿を書いている『Discover Nikkei』自体もまたオンライン媒体だ。オンライン媒体は、世界中どこからでも見られること、修正が必要な時にすぐに対応できること、さらには情報を見ている側もコメント欄に書き込むことで双方的なやりとりが可能なことがメリットとして挙げられる。その特性を生かし、2000年5月にローンチしたロサンゼルス版を皮切りに、現在全米33エリアに「あなたの街のオンライン交流広場」というキャッチフレーズでそれぞれの地域版を展開しているのが『びびなび』だ。日本語オンライン媒体としては突出した存在だと言える。

私自身もこれまでに『びびなび』を、幾度となく利用してきた。「仕事探し」に人材募集の広告を出したこともあれば、ヤードセールの告知を「情報掲示板」に出稿したこともある。また自身で書き込むことはないが、時々「交流広場」を覗いて、在米日本人は今どんなことに関心を寄せているのかを知るためにチャットを閲覧したり、「不動産情報」で賃貸価格の相場を確認したりすることもある。

半年ほど前も、私が広報を担当している日系企業の人材募集を『びびなび』のテキサス版に出稿した。オンラインフォームに必要な情報を入力し、ロゴを添付して出稿完了。ところが、すぐに「ロゴの解像度が低いので修正を加えた」との返信が届き、その細かいカスタマーサポートに感心したものだ。

今回取材に対応してくれたのは須藤陽子さん、『びびなび』のディレクターだ。私が「ロサンゼルス版のディレクターですか」と聞くと、「どこからでも仕事ができるので、私は全米33エリアを含む全世界113エリアを担当しています」との返答。確かに、『びびなび』がユーザーと呼ぶ、各エリアの利用者が『びびなび』に対して出稿する形を取っているので、運営側がどこにいるかは関係ない。

生活に密着した情報を

須藤さんに『びびなび』開設の経緯について聞くと、代表の田村好邦さんの次のような言葉を紹介してくれた。「『びびなび』は2000年にカリフォルニアのパサデナで始動した日本人向け地域別コミュニティーサイトです。私自身がアメリカに暮らしていて不便に思ったのが、大手企業の新製品情報は簡単に入手できるのに、『子猫をあげます』や『空き部屋あります』などの情報は、スーパーマーケットなどにある掲示板の張り紙でしか入手できないということです。これら生活に密着した情報をもっと簡単にインターネット経由で提供できれば、との思いから始まりました」。

さらに、須藤さんは「海外にいる日本人の方々が告知したい情報を身近な地域に発信し、必要な情報を届けます。『びびなび』は地域のコミュニケーションを円滑にすることを目指しています」と続けた。

『びびなび』上には旅行代理店、各種クリニック、レストランなどのビジネスが有料で出稿している広告と併せて、個人が発信する情報が満載されている。「親切に教えてくれる税理士さんを探している」、「多忙のため、夕食を作ってくれる人を募集」、「引越しの手伝いをしてくれる人を求む」など、そのリクエストは多種多様。「『びびなび』では個人の情報交換に力を入れています。その点で賛否が分かれるのが匿名性です。本人確認を行うサイトが増えている一方で、本名を書いて質問するとなると発信自体をためらう人も多く存在します。匿名での発信となる『びびなび』では、悪質な情報を監視するために、システムでの管理と同時に人の目でもチェックしています」。

世界中の日本人社会へ

このように、コンテンツ自体が多くのユーザーからの情報で構成されているだけでなく、展開エリアに関しても、ユーザー側の意向を反映してきたのだと須藤さんは次のように語る。「ロサンゼルスで『びびなび』を始め、その後は日本人が多く住むエリアを中心に、西海岸から徐々に全米各地にエリアを拡大してきました。ユーザーからも世界各地で新たに『びびなび』をオープンしてほしいエリアのご要望をたくさん頂きます。フロリダ州ジャクソンビルなどは、ユーザーのご要望をもとに実現したエリアの一つです」。

こうして日本人が多く住むロサンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ、ニューヨークから、それほど多くはないジャクソンビルまでの全米各地を網羅し、さらには日本の47都道府県、アジア、ヨーロッパ、中南米、オーストラリアやニュージーランドと、『びびなび』は世界の日本人社会で情報交流を媒介するサイトとして成長を遂げた。それら全てのサイトの月の閲覧者の合計は160万人にも及ぶと言う。

個人的な印象だが、数年前に一気に『びびなび』の使い勝手が向上したように感じている。須藤さんによると、ユーザーがより参加しやすいように常に社内で話し合いを行い、検討を重ね、必要な改良を実現してきたそうだ。

代表の田村さんの「生活に密着した情報を気軽にインターネット上で交換できる場を提供したい」という開設時の狙いは形となり、世界各地に広がった。それは、在米邦人を含む日本語での情報交換を望むユーザーたちがその「場」を歓迎し、活用してきたからこそなのだ。

 

*『びびなび・ロサンゼルス』サイト

 

continue a ler

migration ja

Choices for Japanese People Living in America

数カ国での生活経てオーストラリアへ—広美・アッシュモアさん

32年ぶりの日本

エミー賞受賞作で、ダウン症の若者たちの等身大の生活を描いたリアリティーTV番組「Born This Way」。長女がそのメインキャストの一人であり、また自身も同作に出演していた広美・アッシュモアさんは、17年間暮らしたロサンゼルスから2019年、日本に引き揚げた。しかし、その日本を終の住処とはせずに、22年、夫のスティーブンさんと共にオーストラリアに移住しようとしている。このシリーズでは、「アメリカ永住を決めた人」「長年住んだアメリカを去って日本に引き揚げた人」「日本に一度は引き揚げたが再びアメリカに戻ってきた人」などさまざまなパターンを取り上げてきたが、今回は日本でもアメリカでもなく、別の国を永住先に決めた広美さんのケースについて紹介したい。

2002年、広美さんが渡米したのは、オーストラリア出身のスティーブンさんの転勤が理由だった。それ以前にも同じく夫の赴任の帯同で88年から数年ロサンゼルスに滞在、その後イギリス、さらにオーストラリアと各国を転々とした。長女エレナさんは日本生まれ、長男ケネスさんはアメリカ生まれだ。

合計で20年以上暮らしたアメリカは、広美さんの目にはどう映ったのだろうか。

「アメリカの良いところはおおらかで、障害を持つ人へのプログラムが充実していること。そして、たとえ他人の子どもであっても社会の一員として一緒に見守ってくれる土壌があること。あとは不満を持った時にしっかりと主張すれば、相応に対応してくれる点ですね。反面、良くないところは犯罪が多いこと、医療費が高いこと。それから車の運転が荒いこと。日本から直接来たら、家や空間が大きいと感じるかもしれませんが、私たちはオーストラリアで生活していたので、それほど(アメリカの広さを)感じませんでした」。

広美さんが日本に引き揚げた19年に先立つ3年前の16年には、スティーブンさんが仕事の都合で単独で日本に渡った。長男のケネスさんも日本で就職、福岡で生活していた。さらに、エレナさんはロサンゼルス近郊のグループホームに暮らし、広美さんはスティーブンさんと購入したロサンゼルスの自宅暮らしだった。そして、その3年後、スティーブンさんが体調を崩したことを契機に、広美さんは自宅を引き払い、日本に引き揚げた。この時、本人の強い希望があり、エレナさんはグループホームに残った。

さて、日本以外の生活が32年にも及んだ末に戻った日本は、広美さんにとって暮らしやすい社会だっただろうか。

「日本の良い点は安全なこと、警察官を始め公共のサービス職の方が皆親切なこと、そして物の品質が優秀な点ですね。医療費はアメリカに比べればかなり安いです。障害者プログラムに関しては、大人になるとアメリに比べると、きめ細やかでそれなりに充実しているとは思うのですが、子どもの障害者へのプログラムの質は非常に低いと思います。それから、あまり良くないと思う点は、ロサンゼルスのような多民族文化が根付いていないせいで、知り合い同士(内の人)には親切だけれど他人(外の人)には冷たいことでしょうか」。

日本では、広美さんは自宅での生活が困難になり老人ホームに転居した実母を、コロナ前には毎日訪ねていた。32年ぶりに日本に戻った理由は、夫だけが理由ではなく母親のことも大きかったのだと話す。

日米豪を比較すると…

ところで、広美さんが日本に帰った時にエレナさんがロサンゼルスに残ったということは、スティーブンさんが引退したらアメリカで暮らすという選択肢があったのではないかと聞くと、広美さんは次のように答えた。「カリフォルニアに残るのは難しいですね。引退後にアメリカに住むには医療費も高いし、また固定資産税も高額です」。

では、日本はどうだろう?「日本という選択肢は、(外国人の)主人にとって現実的ではありません。また、私自身、アメリカで長らく日本舞踊を教えていたので、日本に引き揚げた時に日本でも教えたいと思っていました。ところが、日本では教える側の人数が多く、年齢は上の方ですが、教え始めるのが遅かったために地盤が築けていない私の場合、日本で教えようと思っても現実的ではありませんでした。

結果的に、夫婦で出した結論は、スティーブンさんの母国であるオーストラリアへの移住だった。

「オーストラリアならアメリカでそうだったように、私が日本舞踊を教えられるチャンスがありそうです。自分が現役でできるうちに早く移住して現地社会で活動を始めたいと思っています。そして何よりもエレナのことが一番大事です。オーストラリアなら、アメリカの今のような生活が送れるはずです。また、オーストラリアには国民健康保険があるし、オーストラリア人は気さくでいい人たちです。候補地はゴールドコーストかブリスベン近郊。ゴールドコーストにもブリスベンにも私の趣味の太鼓のグループがあることも分かっています」。

2022年初めにはすでに退職したスティーブさんが一足先に現地入りし、家探しをすることになっている。

「家は夫が選んだところでいいと思っています。そして、次にすることはエレナの呼び寄せです。彼女は今の(ロサンゼルスでの)グループホームの生活が気に入っています。なかなか、私の希望を聞き入れてくれません。作戦として『オーストラリアに遊びに行こう』と言って、片道切符で迎えに来ることを考えています。そして現地で、障害者向けのプログラムに参加させて、ナイスオージーボーイズをラインアップして彼女の気が変わるようになんとか頑張ります(笑)」。

友人の一人として、私はオーストラリアに移ったアッシュモア一家が笑顔で暮らしていけることを願っている。広美さんはきっと現地で日本舞踊を教え、太鼓を叩いて生活を満喫するだろう。私の頭の中には、そのイメージが今鮮やかに浮かんでいる。

 

continue a ler

media ja

アメリカの日本語媒体

第8回 1984年発行『日刊サン』—LAのコアな読者に支持される新聞

ドジャース野茂旋風が転機に

私がロサンゼルスで暮らし始めた1992年当時、日本語新聞『日刊サン』は有料だった。その後、無料紙になったこと、さらにトルネード旋風を巻き起こした、ロサンゼルス・ドジャースの野茂選手の登場で、まだインターネットから情報を取ることが一般的ではなかった90年代半ばに、一気に同紙が身近な存在になったように記憶している。野茂選手がいかに『日刊サン』の救世主だったかを熱く語ってくれたのは、創業者の牧野泰さんから2012年に事業を譲り受けた現発行人の冨山敏正さんだ。

「1984年、ロサンゼルス・オリンピックの年に創刊した『日刊サン』は、10年間、25セントで販売されていました。私が入社した94年に無料化されたのですが、それまでずっと赤字続きだったこともあり、無料化でうまくいかなければ年末で廃刊する予定だったのです。ところが、その年、サッカーのワールドカップがロサンゼルスで開催されたことでスポーツのニュースが注目され、さらに95年にドジャースに野茂さんの入団でその流れに勢いが付きました。当時は日本人の選手がメジャーリーグでやっていけるわけがないと思われていたのですが、その見方を大幅に覆すほど野茂さんは大活躍したのです。また、1ドル80円台と円高も手伝って、日本から野茂さん目当ての観光客が大挙してロサンゼルスにやって来ました。『日刊サン』の編集部の電話は、野茂さんの登板についての問い合わせの電話が鳴りっぱなしという状態でした」。

野茂選手のニュースに注目する読者が激増し、同紙は同選手の活躍とともに知名度を上げていったのだと冨山さんは振り返る。その後も、スポーツを中心にエンターテインメント、コミュニティーの話題を届ける日本語新聞として同紙は発行を継続した。「飲食関連の求人は『日刊サン』に出稿するのが確実だ」とは私もよく耳にするほど、同紙はコアな読者の支持を得ていた。そして、同紙にとっての次の転機が訪れたのは新型コロナのパンデミックの渦中、2020年のことだった。

「それまではロサンゼルス・エンジェルスの大谷選手の活躍もあり、スポーツをメインに取り上げていました。しかし、20年の3月の(ロックダウンの)時点で、スポーツ中心でいくことが難しくなったため、スポーツ紙から脱却し、新型コロナの情報をはじめ、アメリカの現状を伝えるコンテンツに変更しました。さらに同年11月には、それまで週5日発行していたものを、毎週日曜に発行する週刊にサイクルも変えました。これにより、1号あたりの発行部数を2倍にし、現在は4万部になっています」。

週刊に変えたのはどのような戦略によるものなのか、それによって読者にとっても発行側にとっても良い影響は生まれたのかを冨山さんに聞いた。「毎日、『日刊サン』を手に取って読みたいという、多数のコアな読者に支えられていたことは事実です。しかし、発行頻度を抑えることで1号あたりの部数を2倍に増やすことができました。それにより、読者も増え、広告の効果がぐんと上がったことは実感しています。さらに発行側としては、これまで週5日、新聞を出すために毎日追いまくられ、余裕がありませんでした。週刊化を決行したことで、心にも時間にも余裕が生まれたことが大きな利点です」。

ロサンゼルスオリンピックまで発行を続けたい

紙媒体としての今後について聞くと冨山さんは次のように答えた。「当地に住んでいる日本人が果たしてロサンゼルス・タイムズをしっかり読むかと言うと、そこまで読み込める人は少ないと思います。ですから日本語でアメリカの現地情報を入手することが必要な人にとって、『日刊サン』を絶やすことはできないのだという使命感を感じています。また、ネットの時代になったとは言っても、電子版をネットで配信する一方で、やはり手に取って記事を読みたいという読者がいる限り、新聞の発行を続けたいと思っています」。

冨山さん本人はその計画を知らなかったものの、年内廃刊の可能性があった94年に入社。その後、野茂旋風を受けて生き残った『日刊サン』の経営を引き継ぎ10年、パンデミックの渦中は週刊化にシフトした冨山さんの社会人としてのスタートは、実は観光業界だった。「81年に日本でホテルマンとして就職しました。その後、旅行会社に転職し、アメリカに駐在、ヒューストンやサンフランシスコでも働きました」。スポーツ観戦が趣味だった冨山さんは、「会社で新聞を読んでも怒られないだろう(笑)」と、『日刊サン』に転職した。

「創刊したのが前回のロサンゼルス・オリンピックの年でした。ですから、ロサンゼルスで次にオリンピックが開催される28年まで何としてでも、新聞の発行を続けていきたいと思っています。これまでを振り返ると、『野茂サマサマ』であったと同時に、ロサンゼルスに住む老若男女の読者には感謝しかありません」。28年、同紙は創刊44年を迎える計算になる。まずは同紙の28年までの悔いない完走を、一読者として願うばかりだ。

 

*『日刊サン』公式サイト

 

continue a ler

media ja

アメリカの日本語媒体

第7回 1903年創刊『羅府新報』- ロサンゼルスの有料日系紙

英語と日本語の両輪 

1903年に創刊された『羅府新報』は今も週に4日、有料紙として発行されている(パンデミック中は週に3日発行)。フリーペーパーなどなかった時代からロサンゼルスの日系社会のために地元のニュース、日本のニュース、そして生活情報を届けてきた同紙には、筆者も渡米直後からお世話になってきた。車がないとどこにも行けないこの土地で、ロサンゼルス生活が長い知り合いから「クラシファイドで車を探せるよ」と羅府新報を渡された。そして、中古車ディーラーの広告を見て、公衆電話から問い合わせを入れたことを今も覚えている。携帯などなかった29年前の話だ。そして、私はその真っ赤なマツダの中古車を無事に購入することができた。

現在の羅府新報は10ページ、郵送による購読者は約8000人、電子版の購読者は約3000人。2020年から日本語部編集長を務める、同社勤続21年の永田潤さんに、同紙の歴史を説明してもらった。「羅府新報を1903年に創刊したのは、日本からUSC(南カリフォルニア大学)に留学していた3人の学生でした。日本のメディアがゼロという時代、日本語の情報を日本人のコミュニティーに届けるために創刊されたのです。当時は1世の時代でしたから、紙面は全て日本語でした。その後、2世が成長するとともに、1926年、英語部ができました。現在はすでに5世の時代ですが、英語と日本語のセクションの両輪で続けています」。

日本語セクションの1面は配信記事、2面は独自取材によるコミュニティーのページだ。パンデミック前は、イベントの取材に来てほしいとの要請が絶えず、永田さんと他の2名の記者で取材に回っていた。取材要請が来るということはそれだけ人々に読まれているという証拠だが、「もっとコミュニティーに必要だと感じてもらえるように、独自取材によるオリジナリティーを強くしていかなければなりません」と永田さんは話す。

そして、オリジナリティーを打ち出すための一案は、日系人社会の実情や取り組みを日本語にして伝えることだと言う。「ロサンゼルスの日系社会は、日系人社会と日本語を話す社会に分かれています。日本語を話す邦人社会の団体は親睦団体である一方、日系人たちは全米日系人博物館、日米文化会館といった、経営面でもしっかりした組織を作り、プロフェッショナルなスタッフを雇って運営しています。このような日系人の取り組みを、日本語に翻訳して日本語を母語とする読者に伝えていく使命を実感しています。もっと日系人から、私たち日本人が学べることは多いし、彼らの社会のことを知ってほしいと思うのです」。

また、日本語セクションの課題は購読者の減少にいかに歯止めをかけ、増加に転じさせるかということだ。「新聞そのものを購読するには郵送費がかかるために割高になりますし、購読者の手元に新聞が届くのが発行の翌日になり、時間もかかります。しかし、オンラインだと即時に読んでいただけるし、郵送費も不要なので月の購読料は50ドルです」。

オンライン化促進に活路

電子版の購読者を増やし、新聞の購読者をはるか超えるところまで持っていければ未来は明るい。さらに、電子版以外に、オンライン独自のコンテンツを充実させるプロジェクトにも着手している。

「7月中旬にはウェブサイトのデザインを刷新しました。今後は、サイト独自のコンテンツを充実させていきます。オリジナルストーリーを掲載して、それを売りにしてサイト上の広告をより多く取っていければ、という狙いです」。

さて、2000年に羅府新報に入社した永田さんに、渡米理由と入社の経緯を聞くと次のように振り返ってくれた。「もともとアメリカへの憧れがあって、日本の大学を卒業した後に英語学校に留学しに来ました。1年ちょっと過ごして、日本に帰ろうかなと思っていたんですが、コミュニティーカレッジへのトランスファーという道があることを知り、経営学を専攻して卒業。OPT(オプショナルトレーニング)のビザが出たので、アメリカでも経験を積みたいと日系企業への就職活動をしてみたのですが、なかなか縁がなかったんです。そこで好きな写真を羅府新報主催のフォトコンテストに応募したところ、入選したので(羅府新報に)賞品をもらいに行ったのです。そうしたら、そこで僕が仕事を探しているというのを聞いた会社に採用され、最初は英語部の紙面のネガを作ることから始めました。その後、デジタル化で仕事がなくなったので、今度は日本語部に異動になり、記者に転身しました。会社が専門職ビザ、永住権とスポンサーしてくれて今に至ります」。

ロサンゼルスで歴史ある日系新聞で働くやりがいを聞いた。「日本語で記事を届けているので、日本人社会に喜ばれているという実感を得られることですね。多くの人々との出会いもこの仕事で生まれました。それが財産です。また、羅府新報で初めて仕事として文章を書いたわけですが、人に届ける文章に責任を持つことが重要だと認識しています。真実だけを伝えることが使命であり、最近言われるフェイクニュースは許されません。ニュースメディアとしての責任感は、前の編集長の長島さんや石原さんたちの姿勢から学ばせていただきました。そして、自分のために働くのではなくて、あくまで情報を届ける読者のために働くのがこの仕事なんだと思います」。

今後は電子版の読者をより多く獲得し、「羅府新報」という伝統のブランドを残してほしいと筆者も心から願っている。

 

『羅府新報』公式サイト:https://rafu.com/ja

 

continue a ler