3 移民を授業する - 日系アメリカ人の記憶から学ぶ: トモエ・ニシ(西ともえ) さん
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日本の学校で使用する教材作成のために、ハワイ州ヒロのHawaii Japanese Centerでボランティアをしているトモエ・ニシさんにインタビューをしました。大好きだった日本語学校の思い出、真珠湾攻撃時の大砲の音、ハワイ100大隊から442部隊の一員として活躍したお兄さんの話、日本の敗戦を知って泣いてしまった時のことなどを語ってくださりました。 >> インタビュー記録の印刷 (PDF) © 2008 多文化社会米国理解教育研究会
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父は日本からマウイ島に渡りました。そこからパプアノアに移り住み,そこで母と結婚しました。その後,ヒロの町に出てきました。父は大工をしていました。母は商売がしたくて,豆腐屋を始めました。その頃,私が生まれたんです。豆腐屋は朝が早くて大変でした。当時,一丁 5 銭で,日本人相手に売っていたんです。 写真:父の出身地、山口県の周防大島。多くの日本人が、この島からハワイへ移住した。 |
大好きだった日本語学校 しばらくして、父が桟橋をかける仕事についたのでヒロを離れました。私たち家族もいっしょに行きましたよ。母は工事現場で働く独身者の洗濯を代わりにしてあげる仕事をしていました。一世の両親に育てられた私は,日本人に近いんですよ。小学校に入るまで,家の中では日本人として生活しているでしょう。アメリカのことは小学校に入ってから勉強しました。子どものころは学校が大好きでした。それぞれの村には日本語学校が一つずつあったんです。私は 2 時まで公立の学校で生活し,その後は隣にある日本語学校で 1 時間,読み方,書き方,修身を勉強しました。10 年で卒業する日本語学校に 2年残って,合わせて 12 年間通いました。勉強ができる友だちがライバルで,負けないように勉強しましたよ。 |
戦争が始まって1941 年 11 月,兄は 100 大隊に招集され,イタリアへと出兵しました。手紙が届くたびに母と「まだ生きているね。」と確認し,喜んでいました。その後,兄は戦地で凍傷になり戻ってきました。その頃,高校を卒業した私は,母が営む商店を手伝っていました。店には食べ物の他に布地や下駄など,日本からの品物も置いていました。真珠湾攻撃の後,日本軍が桟橋で撃った大砲の音は,今でも耳に残っています。当時は夜になると部屋の電灯に布をかけて,日本軍の空襲を警戒していました。 |
戦争が続いてもアメリカ本土からはものがなんとか買えたので商売はできました。でも,日本からの品物は入らなくなってきたので,下駄は自分たちで材料を調達して作り,商品にしました。日本の敗戦を知って私は日本が負けたことを知って泣きました。私は日本とアメリカ,どちらにも負けてほしくなかった。私は二世でしょ,でから日本人に近いの。でもアメリカ人。泣いたなんて言っちゃいけないとずっと思ってましたよ。 |
戦後,弟は GHQ で働きました。ホノルルで私と兄,弟の 3 人で撮った写真を見て,母は本当に喜んでくれましたよ。1960 年に一度だけ日本に行きました。東京や京都も観光しましたが,父の故郷,山口県の周防大島町のきれいな海はもう一度見てみたいと,ずっと思っています。 写真: 周防大島のきれいな海 |
トモエ・ニシ(西ともえ)1923 年 ハワイ州オアフ島生まれ。父は山口県周防大島町の出身え 15 歳でハワイに渡った。ハワイに嫁いだ母との間には 7 人の子どもが生まれたが一人は幼くして亡くなり,長兄も1924 年単身で渡った日本で風邪をこじらせて亡くなった。戦争中は母が営む商店を手伝った。戦後,日本から来た夫との間に 3 人の男の子をもうける。 |