Alberto J. Matsumoto

Nisei Japanese-Argentine. In 1990, he came to Japan as a government-financed international student. He received a Master’s degree in Law from the Yokohama National University. In 1997, he established a translation company specialized in public relations and legal work. He was a court interpreter in district courts and family courts in Yokohama and Tokyo. He also works as a broadcast interpreter at NHK. He teaches the history of Japanese immigrants and the educational system in Japan to Nikkei trainees at JICA (Japan International Cooperation Agency). He also teaches Spanish at the University of Shizuoka and social economics and laws in Latin America at the Department of law at Dokkyo University. He gives lectures on multi-culturalism for foreign advisors. He has published books in Spanish on the themes of income tax and resident status. In Japanese, he has published “54 Chapters to Learn About Argentine” (Akashi Shoten), “Learn How to Speak Spanish in 30 Days” (Natsumesha) and others. http://www.ideamatsu.com

Updated June 2013

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日本在住の日系人も老後の時期にきたのか

コロナ禍になって1年半が過ぎたが、日本国内では最近外国人の高齢化問題をテーマにしたセミナーが増えている。今年の3月末に名古屋市で開催されたシンポジウムは対面とオンラインのハイブリッド型で、私は「在日南米コミュニティーの高齢者の老後」について話をするためスピーカーとして招かれた。このシンポジウムでは、韓国人や中国人オールドカマーの事例やフィリピン人たちの試みなどが紹介され、とても興味深いものだった。

特に、我々南米の人間とフィリピン人は「老後」や「終活」という概念についてあまり深く考える機会をもたず、文化的にあまり馴染みがないことが分かった。主催団体の代表である木下貴雄(王榮) 氏によると、中国系のコミュニティーでは、老後への備えやグループホームの設立、介護保険の活用、語学や異文化を理解できる介護福祉士やケアマネージャーの育成、墓地の確保などを終活計画の一部として行ってきたという。かなり衝撃的だったが、海外に移住した日本人も、同様に生活に関わる諸制度を整備し、市営墓地に日本人のための敷地を確保してきたことを思い出した。

しかし、今の日本でそのような準備が必要かというと、私はそうは思わない。日本ではほぼ全てのものが整備されており、ニーズに応じてサービスが提供されている。それらのサービスを利用するにはそれなりの蓄えが必要であるが、外国人であっても必要なものを手に入れることはできる(最悪の場合、死亡後の火葬や埋葬も自治体の福祉事業で対応できる)。日本は少子高齢化で特殊出生率が1.34人、65歳以上が全人口の28.4%(約3600万人)である。平均寿命も84歳(男性81.64歳、女性87.74歳)で、ほとんどの人が年金を受給し、高齢者一般の貯蓄率は高い。この層の医療費負担は飛躍的に上昇しており、今後もその自己負担率が上がってくるに違いないが、それでも多くの人が医療サービスを受けることができ、長寿につながっている。

2020年12月の出入国管理庁の統計によると、日本在住の南米出身者は、272,279人、外国人人口の9%である。ブラジル国籍が208,538人、ペルーが48,256人、ボリビアが6,119人、アルゼンチンが2,966人、パラグアイが2,131人である。65歳以上の数を集計すると、ブラジル人は9,925人で全体の4.6%、ペルー人は3,126人で6.4%であるが、なぜかボリビア人のは16.1%(984人)で、アルゼンチン人は6.8%(206人)、そしてパラグアイ人は1.8%(40人)である。南米出身者の高齢率は5%前後で、この数字だけ見ると今の時点でそれほど心配する必要はないと思えてしまう。しかし、同統計の50代を見ると、数年後には定年年齢もしくは年金受給年齢のものが一気に増えることがわかる。65歳以上の年齢層が9%〜11%になり、高齢者の割合はどんどん増えてくることになる。

一方、在日ブラジル人の今の特殊出生率は3.03(日本の出生数は1,732人)で、ペルー人のが2.6(出生数382人)である。多くの外国人コミュニティーでも見られるように、いずれは特殊出生率がもっと下がり、世代が進むにつれ日本人の特殊出生率と同じまで下がる可能性もある。余談であるが、この日本でもブラジル人やペルー人の離婚率及び婚外子はかなり高く、在京及び在名古屋総領事館でもそうした乳児の出生登録は多いという(厚労省も数年前までは外国人の非嫡出子比率を公開しており、それを国籍別にみるとペルー人やブラジル人は30%を超えていた。これは、本国の50%前後よりかなり低い数字ではあるが、日本の非嫡出子比は2.23%で、15倍になる)1。こうした数字を見る限り、南米出身者が老後のことを考えて計画をたてることは少ないかも知れない。

しかし、2008年のリーマンショック以降、南米出身者の間でも、定住思考が強くなり、年金を受け取れる社会保険への加入意識が高まった。安心して老後を過ごすには、非正規雇用であってもできるだけ長く掛ける必要がある。彼らが65才になるまでにどれぐらいの賭け期間になるのか定かではないが、日本人社員よりはかなり少ないことは間違いない。

今回のシンポジウムのため、ネットで約100人の40歳から65歳のペルー人を対象にアンケートをとった。それによると、87%が年金にかけており、その多くが社会保険の厚生年金に掛けていることが分かった。表2で見られるように、掛け期間が21年以上の人は18.3%、16年から20年が17.2%、11年から15年が21.5%、そして6年から10年が25.8%であった。回答者は、40代が42.6%を占めており、今後も掛け続けることできる人が多いのは救いだが、できるだけこの姿勢を継続してもらいたいものである。幸いにも、ペルー人はブラジル人と違って年金の脱退一時金制度を活用するケースが少ない2。これからも掛け期間を加算していけば、少しは老後の安心につながる。

南米では「老後計画」という概念はあまりない。この20年間で全体の所得は上がり、公的医療も拡充したことで平均寿命もブラジルが75.67年、ペルーが72.52年まで上昇したが、乳児死亡率は日本の6倍以上である(日本:1.8、ブラジル:12.8、ペルー:11.1)。インフォーマル経済が50%前後かそれ以上の南米で、年金制度を信用して掛けている一般市民はそう多くない(5年前の調査ではペルーの就業人口の6割が年金未加入であった)。どの国も受給資格を得るための掛け期間は日本より長く、受給額はその国の制度によって異なるが、公的年金が最低賃金より低いことが多いのも、年金制度を利用する割合が少ない原因であろう3。 

日本在住のペルー人やブラジル人は自国の年金制度を信用していないし、仮に掛けることができても日本に在住しながら受給資格を得ることはかなり困難である(中南米で日本と社会保険協定を締結しているのはブラジルのみである4)。そのせいか、当初はこの日本でも派遣会社の社会保険加入に反発していた。しかし近年は、掛け期間をもっと増やしたいという相談も時々あるので、意識は変わってきているのが分かる。とはいえ、20数年の掛け期間ではそれまでの平均賃金の3割ぐらいにしかならない可能性もあるので、今後は年金収入を補完できるような雇用もしくは子弟たちのサポートが必要になる。最終的に一部のこうした定住外国人の中には、公的支援(生活保護等)にお世話にならざるを得ない人もでてくるかもしれない。

ラテン的に考えると、現時点でそれほど危機感を持つ必要はないようだが、「老後の道筋」ぐらいは定めてもいいのかもしれない。どれぐらい長生きするのかも分からない不確定要素に真剣にならないのがラティーノだが、日本に住んでいる以上本国にいる同胞よりは長生きする可能性はある。というのも、日本の平均寿命は南米より10年から12年多く、日本は医療制度や食育が充実しており、生活習慣病に対する予防プログラムも多いからだ。

日系人は日本人とは死生観は異なっており、「終活」にでてくるお寺やお墓のことまでは議論にさえなっていないようである。とりあえず介護予防教室等に通ってもらい、少しでも健康的かつ楽しい老後を過ごしてもらえるように努めることが先決である。

一般の日本人にとっても不安になる課題であるが、定年年齢の延長、年金掛け期間の拡大、受給資格があっても申請せず貯蓄を増やす、年金生活になってもパート労働や嘱託で働けるように現役の時からその可能性を確保していく、医療費がかからないように健康維持を重視する等々を心得ている方も多い。しかし、ここ10数年やはり非正規雇用も増え、生涯平均収入も増えなかったことで年金の掛け金もそれに比例して少なく、預貯金はあまりないという人も多いのが実情である。政策面でも様々な改善や改革が議論になっているが、外国人居住者にとっても他人事でないのである。

注釈:

1. 日本の非嫡出子比率は低く、2.3%である。一方、中南米や欧州はかなり高く50%を超える国も多い。
婚外子が増えれば日本の少子化問題は解決する?」(ニューズウィーク、2017年7月13日)

2. 年金の脱退一時金制度は外国人のみに適用するもので、日本でかけた年金の一部を本国から返還請求することができる。ここ数年年間6万件を推移しているが、帰国したブラジルの請求手続きは以前から高いのである。
脱退一時金の制度」(日本年金機構、2021年4月1日)

3. アルベルト松本、「南米の年金状況と日本の南米就労者の年金問題」(Discover Nikkei, 2016年11月23日)
CNN Español, "Los países de América Latina con más edad para pensionarse" (CNN, 2019年10月11日)
"Gozar de una pensión en América, ilusión de muchos y realidad de pocos" (Telemetro.com, 2018年7月4日) 

4. 「社会保障協定」(日本年金機構、2020年3月27日) 

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ウルグアイ日系社会の111年の足跡 — 第2部 花卉栽培とブエノスアイレスとの繋がり、そして次世代の日系ウルグアイ人

第1部を読む >>

ウルグアイの日系人が最も多く従事した業種は花卉栽培で、40年ぐらい前までは花卉事業で十分な利益を得ることが可能だったようである。私の生まれ育ったブエノスアイレス郊外のエスコバール市も「花の都」として知られており、戦前から花卉栽培が盛んであった。エスコバールは首都ブエノスから北50キロ離れたところにあり、早い時期から鉄道も敷かれており、土壌が花の栽培に適していた。1940年ごろ、首都ブエノスアイレス郊外には100軒以上の花卉栽培者が存在しており、当時の記録によると、合計所有地が48ヘクタールで、借地が325ヘクタールにも及んでおり、切磋琢磨かつ熾烈な競争だったようである。2019年には、エスコバールはこの街の移住者第1号で、花卉栽培をもちこんだ賀集九平氏1の到着90周年を祝った2

賀集氏は戦前から多くの人を育て、その一人が16歳の若さで1929年にアルゼンチンに入国した山本久夫氏であった。山本氏は、九平さんの下でカーネションや菊の栽培を学び、1937年に旅行でウルグアイを訪れるが、そのまま庭師としてウルグアイにとどまった。その1年後25歳のとき5ヘクタールの土地を買って独立し、アルゼンチンからカーネションの苗を仕入れ、本格的に花卉栽培を始めた。戦後の最盛期には30棟近くの温室が並んだという。坪田静仁氏とも親交を深め、1977年から2年間ウルグアイ日本人会長の役職も務めた。

モンテビデオ郊外で発展した花卉栽培業は、私の生まれ育った故郷エスコバールを思い起こさせる。面積数、日本人会および日本語学校、野球チームなどの存在などを見ると、まるで自分の幼少期をみているようだ。唯一違うのは1970年代に二つの日本人移住地が建設されたことだ3。そこにはパラグアイやボリビアからの日本人転住者もかなりいた。

また、エスコバールには花弁栽培業を自営していたものが多くいたが、組織運営や協同組合での意見対立も多く、派閥闘争が絶えなかったという4。ウルグアイでも同じような問題があったかは定かではないが、少規模日系コミュニティー内でのこうした争いは、組織の財政や事業計画にも大きく響き、ときには次世代に遺恨を残すこともあるが、コミュニティとしては健全に発展してきたようだ。 

いずれにしても、ウルグアイの日系コミュニティには、隣国から個人レベルで転住してきた者が多く、先人の努力と国の発展ゆえに、二世や三世の教育水準も高い。大学進学者も多く、弁護士、会計士、医師、技師という専門職に着いたり、日本や他国に留学する若者も少なくない。

こうした要素は隣国の日系人と同じかも知れないが、「ウルグアイの日系人社会」の著者人類学者のグスタボ・ヘンタドラド氏は下記のように述べている。

「日本人移住者と家族は郊外(パソ・デラ・アレーナ及びその周辺)に住んだものの、日本人地区といったものは形成しなかった。その結果、他の日本人家族との日々の接触や継続的な連絡はなかった。そのため、ウルグアイの日系二世は、日常的な社会で『外人』と接触する機会が、自身と同じ民族集団の構成員である日本人と接触するより多くなる。これはアルゼンチンやブラジルの二世のケースとは異なるものだ。こうした状況は、二世にとっては多勢かつ主流勢力であるウルグアイ人社会との永続的な接触を意味し、彼ら自身が現地社会に順応する過程で役に立ったと言える5」。

この考察にもとづくと、移住者男性の多くが現地の非日系人女性や隣国の二世女性と結婚していることも納得できる。実際、「ウルグアイ〜日系人の歩み」の個別証言をみても、二世や三世がかなりの割合で非日系人と婚姻していることがわかる。

1980年ぐらいまで花卉栽培で栄えたパソ・デラ・アレーナ地区は、産業の衰退とともに日本人世帯が50世帯、10数世帯と徐々に少なくなり、現在親の花卉事業を続けている二世は少ないながらもいるが、その多くは自由業や商業と兼業している。

このように少人数の日系社会ではあるが、日本人会の努力と日本大使館やJICAの協力をもって、日本とのつながりは保たれ、日本文化の伝承が行われている。コロナ禍前までは、日本語教室を提供し、和太鼓演奏なども行われていたし、運動会や忘年会、敬老会や慰霊祭は、日本人会の恒例行事であった。現在は、ズームによる日本語教室を開講している6

また、モンテビデオ市内には立派な「日本庭園」がある。これは2001年に日本・ウルグアイ外交樹立80周年を記念して建設されたものである7。また、2018年には「花博」という日本文化イベントが開催された(以前は、立派な山車を制作して出展していた)。

日本に対する思いは世代が進んでも存在しており、2011年の東日本大震災のときはウルグアイ日本人会を通して被災地に義捐金を送っている。ウルグアイ政府も支援物資としてコンビーフ4600缶(2トンに相当)と50万ドルの義捐金を送っているので、ウルグアイの親日ぶりが伺える。

2021年9月の半ば現在、東京五輪も無事に終えた。余談ではあるが、イマジンワンワールドという財団が民間から寄付を募って五輪参加国すべての着物を制作したことはあまり知られていない8。実は、ウルグアイの着物は岩手県の友禅作家菅原高幸氏が担当し、ウルグアイ出身の日系二世で日本在住の阿野(森山)直美さんがデザインをした9。すばらしい「ウルグアイKIMONO」に仕上がったこの着物、五輪後も他のイベントでぜひ見てみたいと思う次第である。

2020年12月統計であるが、日本在住のウルグアイ人は118人(出入国在留管理庁の「在留外国人統計」)である。このうち日系人がどれだけなのは定かではないが、在留資格別で推測する限り、日系人はその三分の一かそれ以下かも知れない。私は3人しか知らないのだが、幸運にもその一人がこの直美さんで、今回この企画について教えてもらることができてとても感謝している。

南米で最も政治・経済・金融が安定しているこの国は、自然との調和を重視する農牧畜大国でありながら、近年はソフトやアプリ開発にも力を入れており、世界の大手から依頼されるようになってきている。他の南米諸国と比べても、格差が少なく治安も悪くない国である10。政府の優遇措置もあって数年前からアルゼンチン富裕層の転住者が増えている。とはいえ、政策課題はいろいろあるので、今後日系人ももっと社会に関わっていくのも新たな挑戦である。今年はウルグアイと日本との外交関係樹立100周年である。今後益々両国間の関係が発展するよう願っている。 

注釈:

1. 賀集九平氏は、1896年に北海道で生まれ、秋田農学校を卒業した後は国立園芸試験場研究生として2年間過ごし、兵庫県立農事試験場に務めた後、1918年にアルゼンチンに到着した。花卉研究に情熱を注ぎ、統計的な試験栽培を行なった。仲間と研究会を設け専門誌の会報も出すかたわら、当時の日系社会の組織や学校設立にも尽力し、私情をまじえない堅実な移民史を残した。花卉栽培業者の組織化にも関わり、生産者組合や販売に必要な市場建設にも尽力した。エスコバールの名主として、多くの後輩を育て、戦後移住者の独立や新品種開発も指導した。

2. アルベルト松本、「花の都:エスコバール、日本人移住90周年と自分のルーツ再認識」(ディスカバー・ニッケイ, 2020.11.25)

3. JICAの分譲地に建設されたローマベルデ移住地とセラジャ移住地である。両移住地とも、エスコバール市内から10キロ圏内にある。エスコバールには現在300人ぐらいの日系人が居住しており、3世から4世代に移りつつある。

4. アルゼンチン日本人移民史編集委員会ーFANA、「アルゼンチン日本人移民史〜第一巻戦前編」2002年6月

5. 在ウルグアイ日本人会、「ウルグアイ日系人の歩み」、176〜180頁、2019年4月 スペイン語の著書は、Gustavo Genta Dorado, "La Colectividad Japonesa en Uruguay", Ediciones de la Crítica, 1993.

6. 在ウルグアイ日本人会 (Facebook)
 Asociación Japonesa en el Uruguay  

7. モンテビデオのブラネス美術館(Museo Blanes)敷地内にある。当時の稲川大使は、地元日系社会だけではなくアルゼンチン日系企業や商工会議所にも働きかけ、合計600万円の資金を集めた。また、大使の出身地である岐阜県中津川市は雪見灯籠を寄贈した。入り口の表札「平成苑」は小泉首相が揮毫した。(「ウルグアイ日系人の歩み」140頁)

Jardín Japonés de Montevideo (西語)

8. 「KIMONOプロジェクト」 一着200万円の予算で着物作家に依頼し、各国の着物を製作した。ウルグアイは京呉服の菅原高幸氏が担当した。

イマジンワンワールド 

Imagine One World Imagine One World「KIMONO PROJECT」イマジンワンワールド KIMONOプロジェクト (YouTube)

9. 直美さんがKIMONOプロジェクトの協力依頼を受けたのは、モンテビデオにいた母親が亡くなった直後であった。友禅作家の菅原氏がたまたま母親と同じ岩手県出身であることを知り、これは何かの縁だと、悲しみを堪えながら同県一関市の工房に向かった。その後は、在京ウルグアイ大使館で友禅作家の方々と話し合いをしながら、「ウルグアイKIMONO」を完成させた。直美さんは、四人姉妹の末っ子で、JICA日系研修員として来日したこともある。現在は日本人と結婚して千葉県に在住している。

10. 小林一三、「ホセ・ムヒカ氏の世界観である『人々の幸せを目指した開発』を実践する国ウルグアイ」、『ラ米時報』2021春号、48-51頁。

 

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ウルグアイ日系社会の111年の足跡 — 第1部 日本人移住の特徴

南米にあるウルグアイ(正式名称:ウルグアイ東方共和国)は、面積は17万平方キロメートル(日本の約半分)ほどの小さな国で、人口は横浜市とほぼ同じ350万人である。この国が最近日本で話題になったのは、2016年にホセ・ムヒカ元大統領が来日したときであろう。この時ムヒカ元大統領は、東京外国語大学で講演をし1、テレビで「世界でいちばん貧しい大統領2」としてとても質素で気さくなところを紹介された。また最近では、赤身の「ウルグアイ産牛肉」が焼肉チェーン店や肉専門店に提供されていることでも注目を浴びている3。 

しかしこの国にも、現在350人前後の小さな日系社会が存在していることはあまり知られていない。しかも日本人が最初にウルグアイへ移住したのはブラジルと同じ1908年で、すでに113年の歴史を持っていることになる。また、日本人移住110周年の2018年12月には、安倍総理が日本の内閣総理大臣として初めてウルグアイを公式訪問し、現地の日系人らと懇談の機会をもった4

ブラジルとウルグアイへの日本人移民の歴史の始まった年が同じなのは、偶然であってもその背景には繋がりがある。20世紀の初頭、ウルグアイとアルゼンチンは東洋系の移民の受け入れにはかなり慎重で、法で禁止されていた5。1908年6月、隣国ブラジルのサントス港に約800人の日本人移住者(集団移住)を乗せた笠戸丸が到着し、ブラジルへの日本人移住が始まった。その数か月後、笠戸丸移住者の中の沖縄県出身者の一部がアルゼンチンに転住し、ブエノスアイレスの沖縄県民移住もこの年に始まったことになる。一方、当時のアルゼンチンは先進国で世界有数の購買力を持っていたため、ビジネス拡大を狙っていた日本の商社マンにとっても見逃せない大きなチャンスであった。

その笠戸丸には、サンパウロやブエノスアイレスですでに輸入雑貨店を営んでいた瀧波文平氏が乗船していた6。瀧波氏が最初に南米を訪れたのは1905年で、この時、後にウルグアイに派遣される坪田静仁氏も同伴していた。瀧波氏は日本の陶器や絹織物、絵画や東洋美術品の販売店をサンパウロとブエノスアイレスに開店しており、1908年に笠戸丸に乗船したのも、自身の貿易ビジネスのためであった。瀧波氏は、ビジネスをウルグアイの首都モンテビデオへ広げるため、当時ブエノスアイレスの「瀧波文平商店」で既に働いていた坪田氏をウルグアイのモンテビデオ支店長として派遣したのである。今でいえば「企業転勤」であるが、坪田氏はその後ウルグアイに留まりウルグアイ人女性と結婚し、家庭を築いたので、ウルグアイ移住者第1号ということになる。

私がウルグアイをはじめて訪れたのは2009年、第15回パンアメリカン日系人大会(COPANI)に参加したときである7。それ以来、日本で知り合ったJICA日系研修生などを通じてウルグアイの日系人と親交を深めてきた。昨年、モンテビデオの友人が2019年発行の「ウルグアイ〜日系人の歩み111(Trayectoria de la Comunidad Japonesa en el Uruguay - 111 Años de la Inmigración Japonesa en el Uruguay)」という記念史(以下「日系人の歩み」)を送ってくれた。この本には、53名の日本人および日系人のインタビューや、いくつかの突出したエピソードが紹介されており、戦前から戦後にかけての日系人の生き様を垣間見ることができる。

この53名の証言をみると、戦前、戦後にかかわらず、ブラジル、パラグアイ、そしてアルゼンチン等からウルグアイへ転住してきた者がかなり多いことが分かる。近年は、国際結婚やサッカー、ビジネスゆえにウルグアイに定住したケースが多い。戦前・戦後の移住者の多くは、花の栽培で生計を立ていたようで、ウルグアイの日本人移住者による花卉栽培とアルゼンチンとの繋がりが記されたものもありとても興味深く思えた。

花弁栽培に携わる移民の多くは、はじめはイタリア人等の小作人「メディアネロ(medianero)」として働き、次第に首都モンテビデオから16キロ西にあるパソ・デラ・アレーナ(Paso de la Arena)に集住し、花卉栽培を行うようになった。農園の広さは平均5ヘクタール前後で、ブエノスアイレスと同様に、戦前から切り花の販売に力を入れていたようだ。

戦後は、1980年くらいにコロンビアからの輸入花が入ってくる前までは、水木忠雄氏をはじめとする大規模花卉栽培者もいた。水木氏は、100棟の温室をもち、16ヘクタールの小菊を生産していた8。最も有名なのが高田直記氏経営の高田園で、ここには日本語学校もあり、運動会など日本の行事もあったという。

戦前から成功していた多数の先駆者がいたおかげで、日本から農業実習生として日系の花卉園で修行をするために移住しに来るものもいた。そして栽培方法を習得すると、多くは独立し自らの農園を始めたり、ブラジルやアルゼンチンから新たなカーネション、グラジオラス等の品種を持ってきたものもいる。日本に戻ったものも当然いるが、多くは南米に残った。

日本人会は1933年5月に発足し、初代会長として中村正介氏が選任された。発足当時の邦人会員数は10名だったが、翌年には22名まで増えたとある。1941年、移住者第1号の坪田静仁氏が日本人会会長として就任し、その年の11月にパソ・デラ・アレーナにあった三佐川氏園で第1回目の運動会が開かれている9。戦時中は、日本とウルグアイの2国間関係が中断されていたが、パラグアイやブラジルに行って結婚し、ウルグアイへ戻ってきたという日本人もいたようた。「日系人の歩み(2019年4月発行)」には「奇跡的にウルグアイに戻れた」との証言もあった。 

 終戦直後は日本人会の再開に慎重な声が多かったようで、当初は一部の日本人有力者だけが集まって行事や式典を行い、花束を送ったり寄付をするだけにとどまっていた。1952年、リゾート地として知られるプンタ・デル・エステで国際映画祭が開催され、日本の「羅生門」が上映された。この時、日本からたくさんの俳優がウルグアイを訪れたため、日本人会の会員とその家族が歓迎会を催し、これが戦後日本人会の再開につながった。この時期から農業実習生や新規の日本人もウルグアイに来るようになり、日本人会の活動も少しづつ増えていった。戦前から花卉栽培で成功していた山本久夫氏らが中心となり、日本人会の発展に尽力をつくした。

第2部 >>

注釈:

1. 東京外国語大学での公演映像:ムヒカ前ウルグアイ大統領講演会(同時通訳付) (2016年4月7日)

2.ホセ・ムヒカ氏は若いころ、妻と共に極左過激グループ「トゥパマロス」でゲリラ活動をしていた。ムヒカ氏は軍との武力衝突を繰り返し負傷、逮捕され、13年間以上投獄された。その後恩赦を受け釈放された。1985年から政治活動に従事し、2009年に左派連合から大統領職に就いた。「世界でいちばん貧しい大統領」といわれてはいるが、実際は貧しいわけではない。ムヒカ氏の妻ルシアさんも政治家で、上院議長及び副大統領職を務めた。そのため、彼女の給与だけで十分に暮らしていけたので、大統領に就任した2010年からは、ムヒカ氏は自身の報酬のほとんどを所属政党の財団に寄付し、社会福祉事業に充てることを臨んだ。また公邸には住まず、古い車に乗り、モンテビデオ郊外にある家で質素な暮らしを送っていたので、このように言われるようになった。2020年に二人とも政界を引退しのどかな老後生活を送っている。

3. 2019年5月チェーン店での初紹介: 「牛肉大国ウルグアイ産『超厚・熟成』サーロインの魅力を徹底紹介!(ブロンコビリー、2019年5月20日)

Natural Beefの紹介(脳畜産業機構) 「『Natural Beef』と形容されるウルグアイ産牛肉の特徴と対日輸出見通し

4. 安倍総理大臣と在ウルグアイ日系人・在留邦人との懇談 (外務省)

 タバレ・バスケス大統領との首脳会議 (外務省)

 ウルグアイ在留邦人・日系人 (在ウルグアイ日本国大使館)

5. アルゼンチンも東洋系の移住にはかなり慎重で、1905年に日本が日露戦争で勝利した後は日本人の存在を警戒する保守派政治家の言動も見られる。とはいえ、日本への関心と憧れも高まり、インテリ層や商人の一部が日本との関係を試みる時期でもあり、逆に日本から単独でやってくる商社マンも増えるのである。

6. 瀧波文平氏はブエノスに定住したことはないが、合計8回訪れている。長男の文雄氏はアルゼンチンに留まりその子孫は今もブエノスアイレスに在住している。1904年、ブエノスには15人の日本人が住んでおり、その10年後には1007人増えた。その後も隣国からの転住者が増え、小規模商社だけではなく都市部でカフェ経営などを行うものが多かった。

7. アルベルト松本、「モンテビデオCOPANIとウルグアイの動向に注目」(ディスカバーニッケイ、2010年5月20日)

8. 「日系人の歩み〜111年に移住史 Trayectoria de la Comunidad Japonesa del Uruguay, 2019.4)」(水木(田中)良子さんの証言、58ページ)

9.在ウルグアイ日本人会(編集:山本久夫、大野鬼生、梅木一男等)、「在ウルグアイ日本人会発展史」昭和48年(1973年)発行

 

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香川県海外移民の父:今雪真一の情熱と功績

第3部:金子正則知事の南米訪問とその主な見解

元裁判官だった金子知事は、1950年から6期24年間も香川県知事を務めた。県の特産品である「讃岐うどん」を全国に広めた立役者の一人でもある。在任中の1956年、アメリカ国務省による指導者交換事業計画の招聘で、アメリカに3ヶ月間滞在し、その後2ヶ月南米4カ国(ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイ)を訪問し、同県民の移住事情などを視察した。

今雪氏との共著「南アメリカを旅して」の第2部には、知事の詳細な日記と訪問先の観察記録が綴られている。とてもタイトな日程で、今雪氏がその2年前に一年間で訪問した主な地をたった60日間で移動している。知事もこの同胞の海外移住は単に日本の人口増加に対する解決策として推進するのではなく、日本企業の海外進出をサポートできるような移住を促進すべきで、日系人の人脈をもっと活用すべきだと主張している。そうすることで、日系人たちの役割も重要視され、社会的地位向上にもつながるのではないかと期待していた。移民受け入れ国の開発や発展に寄与することが敗戦日本の進むべき道として、日本の若者にこのような大きな挑戦を呼びかけた。

知事という役職柄、地元政府高官や日本人会との会合が多く、移住者と夜遅くまで飲み会を行うことも多々あったようである。今雪氏の報告書を渡航前に読んでいたこともあり、知事の見解は、今雪氏と類似したものがある。その一部をここに紹介する。

  • 戦後直後のブラジルにはすでに40万人の日系人がいる。農業での貢献は凄まじく、ブラジル国民もそれを認めており、日本人に敬意を払っている。戦時中日本語が禁止されていたとはいえ、移住地などではまだ日本語が母語になっているので、これまで以上にポルトガル語を覚えて経済活動を拡大し、社会進出してほしい。

  • パラグアイは、戦前に笠松尚一氏が測量主任としてブラジルからラ・コルメナ移住地の整備に関わった。彼がこの国の香川県移住者第1号である。第2号の村尾正一氏は1938年にラ・コルメナへ移住したが、その後エンカルナシオンに転住した。戦後移住地のチャベスは、原始林の中に位置し、厳しい状況にあった県民の村星氏と森田氏、そして横川氏と関氏から、朝方まで飲みながら話を聞いた。夕方の飛行機に乗るため、移住地から10キロ程度離れたエンカルナシオン空港までの悪路を自転車で行った。この地域には、すでにドイツ人移住者2500家族が入植しており、かなり成功を収めているので彼たちの農業運営は参考にできる。

  • アルゼンチンのブエノスアイレスでは、花卉栽培に従事している県民家族(細川氏、平井氏1、二宮氏等)が暖かく迎えてくれ、いろいろ案内してくれた。

  • ウルグアイでも花の栽培と販売に従事している日本人と懇談。モンテビデオの街並みや市民の切り花を好む側面はブエノスアイレスと似ている。

ウルグアイからブラジルに戻り、サンパウロからアマゾンのベレンに行き、トメアス移住地を訪れ、入植当時から通訳として活躍した香川県出身の星野修氏や野上又一氏と会った。ここで、胡椒で成功した日本人の大豪邸や産業組合や学校、病院の建物を目にし、びっくりしたようだ。また、アマゾン開発の可能性を評価しながらも、あまりの広大な土地でベレンからマナオスだけでも1300キロ、東京ー長崎間の距離と同じなので、日本人がそうした事業に関わることは慎重に判断すべきだと指摘している2

金子知事は、3か月にわたるアメリカを含む計5ヶ月間の海外視察を終えて、香川県に戻り通常の公務に戻る。その後も「香川県移住協会」会長として海外県民のために尽力し、1957年9月には、貴重な資料となる「南アメリカを旅して」を刊行する3

今雪氏の子孫とのつながり 

最後に私の関わりのある今雪氏の子孫について少し述べておきたいと思う。今雪氏の子孫の多くはブラジルやパラグアイにいるが、アルゼンチンにも一人いた。幼いころから「平井さんのおばちゃん」と呼び親しんでいた今雪氏の四女ヒロさんである。ヒロさんは、先生の教え子で助手でもあった平井栄伝(しげつぐ)の妻として、1955年6月にアルゼンチンに到着した。私の父はその2年後の1957年、戦後の外務省農業実習生第1号としてアルゼンチンへ移住し、1961年に母と結婚したので、両親はこのときから平井家には大変世話になっている。

余談であるが、今雪先生が南米を視察していた頃、父は神奈川県の農林省農業技術試験所の園芸部で勉強していた。今雪氏が南米視察から戻った後、父は数日間先生の家で寝泊まりしていろいろな話を聞き、助言してもらったことがあるという。この時の話などもあり、8人兄妹の7番目だった父は、農業技術試験所の教授から推薦をもらい、最終的にアルゼンチン移住を決断したという。

ヒロさんの夫、平井栄伝氏は、赤ワインが大好きで、常に日焼けしていたことを覚えている。それは北部のミシオネス州に所有していた草花の農園からトラックでいつも行ったり来たりしていたからであると後から知った。いつもニコニコして同県人だけではなく誰に対しても面倒見が良かった。残念ながら1985年に亡くなるが、その後妻のヒロさんは大好きなミシオネスで過ごした。夫が残した農園とその亜熱帯な気候が気に入っていたようである。

最後にお会いしたのは2019年9月、私が里帰りしたときである。昨年の2020年8月、86歳で死去したが、ヒロさんは俳句や川柳が好きでいくつかのコンクールで入選している。その一部をここで紹介する。

《俳句》
天の川 老いて移民と なりし父母
コスモスや 少女たわむれ あうごとく

《川柳》
パンパスの風土の中に天と生き 
訪日は瀬戸大橋の渡りぞめ

そして、ヒロさんの長女エリサさんは、現在日本に住んでいる。2010年頃にこの日本で再開して以来、時々他の仲間とともに会食している。しばらくして、共通の在日南米日系就労者の支援に関わっていることが分かった。偶然とはいえ、今雪先生や諸先輩の思いが導いたのかもしれないと思わずにはいられなかった。

現在、エリサさんは介護施設で働いており、5年前からスペイン語で介護予防教室「Siempre Genki(いつも元気、これからも元気)」を神奈川県各地で開講している。主にペルー人の年配者が参加しており、とても好評だという。私も数回見学させてもらったが、みんな楽しく参加し、いろいろな悩みについては互いに情報交換していた。

今雪先生の志が、この日本でも面倒見いのいい孫のエリサによって、受け継がれている証がある。

注釈:

1. 今雪氏の四女ヒロと結婚

2.知事の記録では東京ー長崎とあるが、直線距離だと900キロしかない。ベレンからマナオスは1300キロあり青森から鹿児島までの距離である。2021年現在、陸路で行く場合はロンドニア州のポルトベリョを迂回していくしかないため、その倍以上の3000キロある。飛行機を利用すれば、3時間ぐらいで移動できるが、現在はフェリーで乗り換えをしながら2日間、観光遊覧船だと5~6日間の航路である。

3. 県庁サイトの「南米移住」には、近年の知事の南米訪問などの情報が掲載されている。
香川県総務部知事公室国際課 


参考資料:

今雪真一・金子正則、「南米アメリカを旅して」、香川県広報文書課発行、1957年。

「アルゼンチン香川県人会」、創立35周年記念誌、2005年。

第5章:「『移民の父」今雪先生の四女、平井ヒロさんの歩んだ道」、香川県南米移住史、135頁151頁、2004年。

 

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migration ja es

香川県海外移民の父:今雪真一の情熱と功績

第2部:「海外移住」の持論

今雪先生は、現場で目にし、聞いた課題を冷静に分析し、「海外移住」の持論と心構えを記しているので、その幾つかを紹介したい。

  • ブラジルやパラグアイ奥地の教育問題は深刻で、小学生の落第や中退者が多い。しかし、のんびりした半日学級制度や教員の副業容認は、日本の詰め込み暗記授業よりも良い。

  • 戦前の大規模植民地の日本語学校は、日本の学校とぼぼ同じで厳しい教育と規律を維持していたので、日本語力はかなり高かった。卒業生の中には日本で高等教育を受けた者もいる。しかし、学校の閉鎖性と排他性はもっと改善しなくてはならない1

  • 日本語教育に力を入れすぎて。ポルトガル語が正確に身につかず、日本語なまりでごっちゃ混ぜになっており、大学をはじめとする上級学校への進学や就職に不利となる。幼少期になるべく、ブラジル人と交わり正確な発音を身につけ、家族全員で子供のポルトガル語学習に努めることをすすめる。

  • 日系二世は、社会的に日系ブラジル人であって、本来のブラジル人の素質も持っている。はじめは多少不利だったかも知れないが、日本人は勤勉で、正直で、誠実で、勇敢でどんなところへも行き、適応能力があるので、アマゾンの奥地でも健全に暮すことができている。教養もそれなりにあり、進歩的なので、あらゆる分野に挑戦し、新産業を起こしたものもいる。ブラジル人やヨーロッパ人がやり得なかったことを実現し、ブラジル等にとっては実に有難い移民である。ただ、移民法案をみてもわかるように、すべてのブラジル人学者や政治家が親日家ではなく、国粋主義者及び白人優越主義者もいる。二世がブラジル人として、その有能さを、ブラジル国の発展に尽くすべきである。

  • 日系人がさらなる社会的地位向上を目指すのなら、政治力を強化するため政界に乗り出すことは重要である。日系有権者の多くが棄権し、複数の日系候補者が票を奪い合っているので、せっかくの当選が遠のいてしまい残念である。

  • 南米移住は、各自決断すべきである。関心がある人は、熱帯地域の雨や風土病を覚悟で、一度トライしてみるとよい。移住の良さは人それぞれで、家族構成や性格によって適する移住地と適さない移住地があるので、どこが良いとは言えない。

  • 移住者への過剰な助成金や貸付金はあまり望ましくない。融資は焦げ付くリスクが高く、移住者の覚悟を弱めてしまうこともある。一攫千金を夢見て移住しても、そう簡単に実現できる国は南米にはない。

また、南米に移住した日本人の存在をこのように述べている。

「明治末期から開戦までの30数年間に、日本政府が移民の渡航補助に使った資金は3千万円で今日(当時)の金に換算すると10億円になる。それに対し南米からの訪日移民団が日本へ落としていく金が年に10億円で、移民対象の輸出高が35億円である。また母国送金もかなりの金額で、日本に多大の利益をもたらしていることは確実である」。

今の時代でも十分に通じる移住先での社会統合のイロハである。当時は今よりもっと限られた選択しかなく、移住者としての覚悟と忍耐は厳しいものだったに違いない。退職して62歳でこの視察旅行を行った今雪先生にとって、香川県から送り出した教え子と移住地での再会はとても感慨深いものであったことは、「南アメリカを旅して2」から垣間見ることができる。

各地に、教え子や世話をした花嫁、先輩移住者やその子孫がおり、どの土地でもとても暖かく迎えられ、常に別れがとても辛かったと述べている。今雪氏がブエノスアイレスを訪れた際、14人の教え子の内9人が、毎日一晩ずつ先生を家に招き、かれらの家族とともに過ごしたという。教え子たちは、先生から香川で教わったものは、農業だけではなく、人生設計や生活にもたくさん役立ったと証言している。

第3部 >>

注釈:

1.戦後のパラグアイやボリビアの日本人移住地における日本語学校は、私塾としてはじまったが、次第に体制が整備され、地元当局の認可を得て正規の教育制度に組み込まれるようになった。今では日系人・非日系人を問わず誰もが通える私立学校になっている。

2.今雪氏が記録した「南米移住地視察記」からいくつか抜粋し、金子知事と共著したのが「南米アメリカを旅して」(香川県広報文書課発行、1957年)である。

 

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