Alberto J. Matsumoto

Nisei Japanese-Argentine. In 1990, he came to Japan as a government-financed international student. He received a Master’s degree in Law from the Yokohama National University. In 1997, he established a translation company specialized in public relations and legal work. He was a court interpreter in district courts and family courts in Yokohama and Tokyo. He also works as a broadcast interpreter at NHK. He teaches the history of Japanese immigrants and the educational system in Japan to Nikkei trainees at JICA (Japan International Cooperation Agency). He also teaches Spanish at the University of Shizuoka and social economics and laws in Latin America at the Department of law at Dokkyo University. He gives lectures on multi-culturalism for foreign advisors. He has published books in Spanish on the themes of income tax and resident status. In Japanese, he has published “54 Chapters to Learn About Argentine” (Akashi Shoten), “Learn How to Speak Spanish in 30 Days” (Natsumesha) and others. http://www.ideamatsu.com

Updated June 2013

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香川県海外移民の父:今雪真一の情熱と功績

第3部:金子正則知事の南米訪問とその主な見解

元裁判官だった金子知事は、1950年から6期24年間も香川県知事を務めた。県の特産品である「讃岐うどん」を全国に広めた立役者の一人でもある。在任中の1956年、アメリカ国務省による指導者交換事業計画の招聘で、アメリカに3ヶ月間滞在し、その後2ヶ月南米4カ国(ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイ)を訪問し、同県民の移住事情などを視察した。

今雪氏との共著「南アメリカを旅して」の第2部には、知事の詳細な日記と訪問先の観察記録が綴られている。とてもタイトな日程で、今雪氏がその2年前に一年間で訪問した主な地をたった60日間で移動している。知事もこの同胞の海外移住は単に日本の人口増加に対する解決策として推進するのではなく、日本企業の海外進出をサポートできるような移住を促進すべきで、日系人の人脈をもっと活用すべきだと主張している。そうすることで、日系人たちの役割も重要視され、社会的地位向上にもつながるのではないかと期待していた。移民受け入れ国の開発や発展に寄与することが敗戦日本の進むべき道として、日本の若者にこのような大きな挑戦を呼びかけた。

知事という役職柄、地元政府高官や日本人会との会合が多く、移住者と夜遅くまで飲み会を行うことも多々あったようである。今雪氏の報告書を渡航前に読んでいたこともあり、知事の見解は、今雪氏と類似したものがある。その一部をここに紹介する。

  • 戦後直後のブラジルにはすでに40万人の日系人がいる。農業での貢献は凄まじく、ブラジル国民もそれを認めており、日本人に敬意を払っている。戦時中日本語が禁止されていたとはいえ、移住地などではまだ日本語が母語になっているので、これまで以上にポルトガル語を覚えて経済活動を拡大し、社会進出してほしい。

  • パラグアイは、戦前に笠松尚一氏が測量主任としてブラジルからラ・コルメナ移住地の整備に関わった。彼がこの国の香川県移住者第1号である。第2号の村尾正一氏は1938年にラ・コルメナへ移住したが、その後エンカルナシオンに転住した。戦後移住地のチャベスは、原始林の中に位置し、厳しい状況にあった県民の村星氏と森田氏、そして横川氏と関氏から、朝方まで飲みながら話を聞いた。夕方の飛行機に乗るため、移住地から10キロ程度離れたエンカルナシオン空港までの悪路を自転車で行った。この地域には、すでにドイツ人移住者2500家族が入植しており、かなり成功を収めているので彼たちの農業運営は参考にできる。

  • アルゼンチンのブエノスアイレスでは、花卉栽培に従事している県民家族(細川氏、平井氏1、二宮氏等)が暖かく迎えてくれ、いろいろ案内してくれた。

  • ウルグアイでも花の栽培と販売に従事している日本人と懇談。モンテビデオの街並みや市民の切り花を好む側面はブエノスアイレスと似ている。

ウルグアイからブラジルに戻り、サンパウロからアマゾンのベレンに行き、トメアス移住地を訪れ、入植当時から通訳として活躍した香川県出身の星野修氏や野上又一氏と会った。ここで、胡椒で成功した日本人の大豪邸や産業組合や学校、病院の建物を目にし、びっくりしたようだ。また、アマゾン開発の可能性を評価しながらも、あまりの広大な土地でベレンからマナオスだけでも1300キロ、東京ー長崎間の距離と同じなので、日本人がそうした事業に関わることは慎重に判断すべきだと指摘している2

金子知事は、3か月にわたるアメリカを含む計5ヶ月間の海外視察を終えて、香川県に戻り通常の公務に戻る。その後も「香川県移住協会」会長として海外県民のために尽力し、1957年9月には、貴重な資料となる「南アメリカを旅して」を刊行する3

今雪氏の子孫とのつながり 

最後に私の関わりのある今雪氏の子孫について少し述べておきたいと思う。今雪氏の子孫の多くはブラジルやパラグアイにいるが、アルゼンチンにも一人いた。幼いころから「平井さんのおばちゃん」と呼び親しんでいた今雪氏の四女ヒロさんである。ヒロさんは、先生の教え子で助手でもあった平井栄伝(しげつぐ)の妻として、1955年6月にアルゼンチンに到着した。私の父はその2年後の1957年、戦後の外務省農業実習生第1号としてアルゼンチンへ移住し、1961年に母と結婚したので、両親はこのときから平井家には大変世話になっている。

余談であるが、今雪先生が南米を視察していた頃、父は神奈川県の農林省農業技術試験所の園芸部で勉強していた。今雪氏が南米視察から戻った後、父は数日間先生の家で寝泊まりしていろいろな話を聞き、助言してもらったことがあるという。この時の話などもあり、8人兄妹の7番目だった父は、農業技術試験所の教授から推薦をもらい、最終的にアルゼンチン移住を決断したという。

ヒロさんの夫、平井栄伝氏は、赤ワインが大好きで、常に日焼けしていたことを覚えている。それは北部のミシオネス州に所有していた草花の農園からトラックでいつも行ったり来たりしていたからであると後から知った。いつもニコニコして同県人だけではなく誰に対しても面倒見が良かった。残念ながら1985年に亡くなるが、その後妻のヒロさんは大好きなミシオネスで過ごした。夫が残した農園とその亜熱帯な気候が気に入っていたようである。

最後にお会いしたのは2019年9月、私が里帰りしたときである。昨年の2020年8月、86歳で死去したが、ヒロさんは俳句や川柳が好きでいくつかのコンクールで入選している。その一部をここで紹介する。

《俳句》
天の川 老いて移民と なりし父母
コスモスや 少女たわむれ あうごとく

《川柳》
パンパスの風土の中に天と生き 
訪日は瀬戸大橋の渡りぞめ

そして、ヒロさんの長女エリサさんは、現在日本に住んでいる。2010年頃にこの日本で再開して以来、時々他の仲間とともに会食している。しばらくして、共通の在日南米日系就労者の支援に関わっていることが分かった。偶然とはいえ、今雪先生や諸先輩の思いが導いたのかもしれないと思わずにはいられなかった。

現在、エリサさんは介護施設で働いており、5年前からスペイン語で介護予防教室「Siempre Genki(いつも元気、これからも元気)」を神奈川県各地で開講している。主にペルー人の年配者が参加しており、とても好評だという。私も数回見学させてもらったが、みんな楽しく参加し、いろいろな悩みについては互いに情報交換していた。

今雪先生の志が、この日本でも面倒見いのいい孫のエリサによって、受け継がれている証がある。

注釈:

1. 今雪氏の四女ヒロと結婚

2.知事の記録では東京ー長崎とあるが、直線距離だと900キロしかない。ベレンからマナオスは1300キロあり青森から鹿児島までの距離である。2021年現在、陸路で行く場合はロンドニア州のポルトベリョを迂回していくしかないため、その倍以上の3000キロある。飛行機を利用すれば、3時間ぐらいで移動できるが、現在はフェリーで乗り換えをしながら2日間、観光遊覧船だと5~6日間の航路である。

3. 県庁サイトの「南米移住」には、近年の知事の南米訪問などの情報が掲載されている。
香川県総務部知事公室国際課 


参考資料:

今雪真一・金子正則、「南米アメリカを旅して」、香川県広報文書課発行、1957年。

「アルゼンチン香川県人会」、創立35周年記念誌、2005年。

第5章:「『移民の父」今雪先生の四女、平井ヒロさんの歩んだ道」、香川県南米移住史、135頁151頁、2004年。

 

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香川県海外移民の父:今雪真一の情熱と功績

第2部:「海外移住」の持論

今雪先生は、現場で目にし、聞いた課題を冷静に分析し、「海外移住」の持論と心構えを記しているので、その幾つかを紹介したい。

  • ブラジルやパラグアイ奥地の教育問題は深刻で、小学生の落第や中退者が多い。しかし、のんびりした半日学級制度や教員の副業容認は、日本の詰め込み暗記授業よりも良い。

  • 戦前の大規模植民地の日本語学校は、日本の学校とぼぼ同じで厳しい教育と規律を維持していたので、日本語力はかなり高かった。卒業生の中には日本で高等教育を受けた者もいる。しかし、学校の閉鎖性と排他性はもっと改善しなくてはならない1

  • 日本語教育に力を入れすぎて。ポルトガル語が正確に身につかず、日本語なまりでごっちゃ混ぜになっており、大学をはじめとする上級学校への進学や就職に不利となる。幼少期になるべく、ブラジル人と交わり正確な発音を身につけ、家族全員で子供のポルトガル語学習に努めることをすすめる。

  • 日系二世は、社会的に日系ブラジル人であって、本来のブラジル人の素質も持っている。はじめは多少不利だったかも知れないが、日本人は勤勉で、正直で、誠実で、勇敢でどんなところへも行き、適応能力があるので、アマゾンの奥地でも健全に暮すことができている。教養もそれなりにあり、進歩的なので、あらゆる分野に挑戦し、新産業を起こしたものもいる。ブラジル人やヨーロッパ人がやり得なかったことを実現し、ブラジル等にとっては実に有難い移民である。ただ、移民法案をみてもわかるように、すべてのブラジル人学者や政治家が親日家ではなく、国粋主義者及び白人優越主義者もいる。二世がブラジル人として、その有能さを、ブラジル国の発展に尽くすべきである。

  • 日系人がさらなる社会的地位向上を目指すのなら、政治力を強化するため政界に乗り出すことは重要である。日系有権者の多くが棄権し、複数の日系候補者が票を奪い合っているので、せっかくの当選が遠のいてしまい残念である。

  • 南米移住は、各自決断すべきである。関心がある人は、熱帯地域の雨や風土病を覚悟で、一度トライしてみるとよい。移住の良さは人それぞれで、家族構成や性格によって適する移住地と適さない移住地があるので、どこが良いとは言えない。

  • 移住者への過剰な助成金や貸付金はあまり望ましくない。融資は焦げ付くリスクが高く、移住者の覚悟を弱めてしまうこともある。一攫千金を夢見て移住しても、そう簡単に実現できる国は南米にはない。

また、南米に移住した日本人の存在をこのように述べている。

「明治末期から開戦までの30数年間に、日本政府が移民の渡航補助に使った資金は3千万円で今日(当時)の金に換算すると10億円になる。それに対し南米からの訪日移民団が日本へ落としていく金が年に10億円で、移民対象の輸出高が35億円である。また母国送金もかなりの金額で、日本に多大の利益をもたらしていることは確実である」。

今の時代でも十分に通じる移住先での社会統合のイロハである。当時は今よりもっと限られた選択しかなく、移住者としての覚悟と忍耐は厳しいものだったに違いない。退職して62歳でこの視察旅行を行った今雪先生にとって、香川県から送り出した教え子と移住地での再会はとても感慨深いものであったことは、「南アメリカを旅して2」から垣間見ることができる。

各地に、教え子や世話をした花嫁、先輩移住者やその子孫がおり、どの土地でもとても暖かく迎えられ、常に別れがとても辛かったと述べている。今雪氏がブエノスアイレスを訪れた際、14人の教え子の内9人が、毎日一晩ずつ先生を家に招き、かれらの家族とともに過ごしたという。教え子たちは、先生から香川で教わったものは、農業だけではなく、人生設計や生活にもたくさん役立ったと証言している。

第3部 >>

注釈:

1.戦後のパラグアイやボリビアの日本人移住地における日本語学校は、私塾としてはじまったが、次第に体制が整備され、地元当局の認可を得て正規の教育制度に組み込まれるようになった。今では日系人・非日系人を問わず誰もが通える私立学校になっている。

2.今雪氏が記録した「南米移住地視察記」からいくつか抜粋し、金子知事と共著したのが「南米アメリカを旅して」(香川県広報文書課発行、1957年)である。

 

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香川県海外移民の父:今雪真一の情熱と功績

第1部:海外移住への情熱

近代日本の海外移民は、徳川幕府とハワイ王国の取り決めによって明治元年にハワイに到着した153人の日本人からスタートした。明治政府による新たな国づくりはとても大かがりなもので、貿易と産業育成にも力を入れていた。しかし、それ以前に締結した不利な条約が、例えば貿易取引に大きな障害になっていたのでいくら生糸(蚕産業)を輸出しても高い値段で取引することもできず日本の地域経済に思うように還元できなかったのである。1868年、日本の総人口は3400万人だったが、1900年には約4400万人、1920年に5500万、1940年には7200万人にまで増加した。産業は急速に発展したものの、増加する国民に豊かさ与えるには十分でなく、北海道開拓や海外移住が、豊かな生活を求める人々の希望的選択肢の一つであったことは間違いない。

実際、元幕臣で明治政府の外相を務めた榎本武揚氏は、メキシコへの移住を促進した。また、農大等で学んだ知識を生かそうと、中南米へ集団もしくは個人で移住した者もいる。統計を見ると、明治元年から1940年の間に海外へ移住した者は、日本の総人口の5%弱である。その内訳は、台湾、朝鮮半島、満州等アジアや大洋州の島々に拓殖民として移住したものは270万人だった。一方、中南米へ23万人、北米へ32万人移住しており、海外移住者全体の14%を占めていた。

海外在留邦人の多くは、戦時中、強制収容または転住、本国退去の対象になり、終戦後は日本へ帰国するか移住先へ残るか大きな決断を迫られた。1950年代になると、ブラジルやドミニカ共和国、ボリビア、パラグアイへの集団移住が行われた。現在、アメリカ大陸だけでも300万人の日系人が存在する1

香川県からは、戦前に約5千人が海外移住した。移住先として最も多いのがブラジルで2100人、満州929人、アメリカ810人、ハワイに158人、ペルー189人であった。戦後は、232家族からなる630人が海外移住をしており、その内訳はブラジルに403人、パラグアイに139人、そしてアルゼンチンには私の両親を含む37人が移住した。

これら移住者をみると、香川県立農林学校(現在の香川大学農学部)出身者が多い。これは、この農林学校で教鞭をとった今雪真一先生の指導や影響があったからといえる。校内の庭には、「今雪真一先生銅像」があり、「木田農植民部の育ての親」、「香川県南米移民の父」と紹介されており2、南米へ移住した古い世代の香川県民で、今雪先生を知らない人はいない3
 

今雪真一先生とは?

今雪真一氏は、明治25年(1892年)、香川県木田郡で生まれた。鹿児島高等農林学校を卒業後、1919年より香川県立農林学校の教諭を務め、校長職も歴任した。この間、満州や太平洋南西諸島を視察しており、教え子をはじめ多くの人に海外移住の重要性を主張していた。

今雪氏は退職後の1953年、金子正則知事4とともに香川県移住協会を設立した。1954年には約一年かけて南米4か国―ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ―の日本人移住地を訪れた。東西南北を移動しながら、889家族から話を聞き、各国の移住実態や課題などを記録した5。また可能な限り、州知事や政府関係者、農業やインフラを管轄している官僚や専門家とも懇談の機会を設けた。

今雪氏の三男、浩三氏によると、今雪氏は戦前、国策の一環として海外移住を進めていたが、1年間にわたる南米訪問で海外移住に対する考えがかなり変わったという。今雪氏の4人の子供たちもブラジルやパラグアイに移住し、自身も妻とともに1961年にブラジルに居住地を移し、教え子や多くの同胞に農業や生活指導をし続けた。その後一度も里帰りをせず、1972年に三男の浩三らに見守られながら情熱的な教育者としての生涯を閉じた。

海外移住には、覚悟と努力だけでは語れないものがたくさんあり、移住者の数々の苦難や彼らの直面した数々の理不尽な現状を痛感したのかも知れない。だからこそ、最後は自ら南米に移住し、その地に骨を埋めたのだろう。

 
1年にわたる南米訪問

今雪氏の南米訪問については、同胞との対話などをまとめた「虻鳴録(ぼうめいろく)」と、各地の移住地について鋭い観察力をもって記した「南米移住地視察記」から知ることができる。

これらの手記によると、今雪氏の南米訪問は、広大なブラジルから始まった。サンパウロ市郊外のイチゴ栽培や養鶏場の多いスザーノとモジダクルーズからはじまり、その後サンパウロ南東部の緑茶産地レジストロ、同州北西部のアリアンサ移住地とアンドラジーナ、藤原ファゼンダー(大規模コーヒー農場)、中部のマットグロッゾ州、アマゾニア地方のパラ州(トメアスー移住地、カスタニャール移住地やゴム園等)、アマゾナス州のベラビスタ植民地、連邦直轄のガポーレ州(現ロンドニア州)のポルトベリョとトレーゼ・デ・セテンブレ移住地、そしてボリビア国境の鉄道にも乗りイヤツタ植民地も訪れた。今のように飛行機で一っ飛びできる時代ではなく、鉄道やバスだけでなく、必要とあれば馬車でも移動した。

その後、アルゼンチンを訪問し、ブエノスアイレス市郊外の主に香川県人による花卉栽培農家をいくつか訪れた。その後、ワインが美味しいメンドーサ(ブドウ栽培)や中部のコルドバ州(牧場や小麦、オリーブ園)、北東部のミシオネス州(マテ茶栽培)も訪れている。当時外国人の居住は、ブエノスアイレス市から100キロ以内、他の都市は50キロ以内に制限されていたが、その規制が徐々に緩和されていたことも記されていた。

パラグアイでは、戦前から存在するラ・コルメナ移住地を訪問し、土壌問題ゆえに多くの移住者が隣国に転住したことを知る。その後チャベス植民地を訪れ、アルゼンチン国境沿いにあるエンカルナシオン市にも足を運ぶ。井上氏のサツマイモ赤土栽培の成功に感激している。

最後の訪問国ウルグアイは、二泊三日の短い滞在の中、日本大使館の案内で、在留日本人の詳細なヒヤリングを行った。当時同国には在留日本人が38世帯160人、二世代目を含むと50世帯おり、そのほとんどが花卉栽培に従事していた。アルゼンチンと同じようにカーネーション、バラ、鉢物(観葉植物)を栽培していることを特徴として上げていた。アルゼンチン、ウルグアイ両国における花弁産業の発展には、戦前から日本人が大きな貢献をしており、温室栽培の切り花は品質が良く当時から高い利益率を得ていたという。

第2部 >>

注釈:

1. ブラジルに約190万人、アメリカに110万人の日系人がいるといわれている。

2. 「香川大学News Letter」、第9号平成23年(2011年)10月号

3. 香川県教育委員会は、中学生用の道徳教育用資材として、今雪氏の業績をまとめたものを県内の学校に配布している

4. 裁判官出身の金子氏は、1947年、香川県副知事に就任。1950年、県知事に当選し、以後6期24年間その職務を務めた。彼の功績をたたえ、1977年に勲一等瑞宝章が授与された。1980年には、香川県名誉県民の称号が贈られた。1996年、89歳で死去。

5. 南米訪問については、移住家族との対談をまとめた「虻鳴録」と、各地の移住地について鋭い観察力をもって記した「南米移住地視察記」から詳しく知ることができる。

 

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The Nikkei of Latin America and Latino Nikkei

外国人児童の不就学、低い高校進学の課題〜日系子弟への警鐘

現在、日本の義務教育修了率はほぼ100%で、高校進学率も98%となっており、就学率と修了率は世界一である。大学進学率は53.7%と、先進国の中ではあまり高くないが、専門学校進学率23.6%を合わせると8割以上が高等教育を受けていることになる1。その内容やスキルの水準はともかく、労働市場で柔軟に対応できる能力を持った人材が育成されていることがこの数字に表れている。いずれにしても中等教育の修了率が高いのは、日本の教育制度が完備しているからである。一方、ラテンアメリカ諸国では義務教育の中退者や不就学が未だに3割前後いるとされており、貧困が深刻な地方都市や農村ではそれ以上だと指摘されている2

1990年の入管法改正で南米の日系就労者が来日し始めてからすでに30年。現在は日系人人口25万人ぐらいといわれているが、2008年のリーマンショック時には39万人(ブラジル国籍だけでも31万人、ペルー人が約6万人)を記録した。ここ十数年はアジア諸国からの留学生や技能実習生が飛躍的に増加し、現在の在留外国人は約300万人である3。家族を呼び寄せたものもいれば日本で家庭を築いたものもおり、現在、外国人の義務教育就学年齢児童は12万人を超え、そのうち不就学あるいは就学状況が確認できない児童が約2万人いると文科省の「外国人の子供の就学状況等調査結果(速報、2019年9月)」で明らかになった4

外国人児童の就学状況については、これまで研究者や自治体が個別に調査を行ってきたが、全ての市町村の教育委員会を通しての全国規模での調査はこれが初めての試みであった。2006年に文科省が行った調査5では、一部の外国人集住自治体(1県11市)のみ、日系ブラジル人が集住している群馬県の太田市、岐阜県の美濃加茂市、静岡県の掛川市と富士市、愛知県の豊田市と岡崎市、そして三重県の四日市市などが対象だった。まだリーマンショック前で南米の日系人39万人と最も多い時期だったが、不就学期間が1〜2年という児童が多かった。不就学の理由として、「学校へ行くためのお金がないから」(15.6%)、「日本語がわからないから」(12.6%)、「すぐに母国に帰るから」(10.4%)、「母国の学校と生活や習慣が違うから」(8%)や「勉強の内容がわからないから」(8%)が挙げられた。8割が以上が公立学校への入学手続きを知っていると答えていたにもかかわらず、手続きそのものを理解していなかったり、通訳付きの入学ガイダンスさえを受けていなかった。

3年前、NPO法人青少年自立援助センターが実施した調査によると、外国人子弟の高校進学率は平均60%に留まっている6。この数字は、昨年発表された調査「日本語指導が必要な児童生徒の受入状況等に関する調査」にも間接的に現れている7。全国の外国籍の児童生徒4万人が日本語サポートの対象になっており、2年前から6150人増加している。母国語別にみると、最も多いのがポルトガル語を話すブラジル出身者で25.7%、約1万人が日本語サポートを必要としている。こうした外国人生徒の高校進学率は71.1%、中退率は9.6%となっており、一般生徒と比べると7.4倍である。大学進学率は42.2%と近年増加しているが、就職しても非正規雇用の契約が40%で、平均の9.3倍あるという8

不就学になっている児童生徒は確立した学習言語を持っていないため、日本語もポルトガル語又はスペイン語も非常に低い水準のケースが多く、一定の日常会話はできても、その言語で知識を身につけ、考え、表現するレベルを持っていない状態だという9。仮に本国に戻ったとしても、簡単に正規の学校には戻れず、戻っても留年の対象になり中退してしまうことが多い。中南米でも義務教育は国家の責務であると同時に親の義務としても規定しており、それを履行しない場合は国や州レベルでの罰金や禁固刑が定められている。しかし、これは主に児童労働防止や貧困支援のためである。多くの国の貧困地区の学校ではおやつや食事を無償で提供し、就学義務を履行した世帯のみに追加の助成金を提供している。ブラジルやペルーでは日本のように学校や教育委員会、市民団体がサポートしてくれることはほとんどなく、親が家庭教師を雇うことができなければそのまま放置されてしまう。

日本にとどまった場合でも、最低限のスキルアップの機会は中々得られず、職業の選択は限られてくる。社会が期待している多様性のある多文化的な人材、または高度なグローバル人材になり社会に貢献するという目標はかなり遠退いてしまう10

とはいえ、外国人住民が多い自治体では様々な試みを展開している。数年前、静岡県浜松市は「外国人の子どもの不就学ゼロ作戦事業」を実施した11。今は「浜松モデル」として知られているが、市や国際交流協会だけではなく、在浜松ブラジル総領事館や集住地区の自治会(町内会)、警察などの協力を得て、土日を問わず聞き取り調査や家庭訪問、入国管理局の出国確認などのデータ照合によって、実態の把握にと努めたのである。外国人児童の学習支援を行っているNPO団体などを通じて、帰国予定がない完全不就学を突き止めることにも尽力し、通訳とともに親との面談、説得、情報提供を忍耐強く行ったのである。これは一つの成功事例である。

しかし、昨年文科省が発表した「外国人の子供の就学状況等調査結果」によれば、83.6%の地方公共団体が転入等の住民登録手続きの際に就学案内をしており、71.6%は住民基本台帳と学齢簿システムの連動をしているとのことだが、実際に訪問による個別確認や就学勧奨をしているのは17.0%に留まっている12。すべての自治体が「浜松モデル」のように対応することは困難であるが、中南米出身の児童の不就学を減少させるには在京総領事館との連携や、諸団体やエスニックメディア等の明確かつ強いメッセージが重要になってくる。日本の法律では外国人子弟に義務教育を課すことができないとはいえ13、重要な義務を履行できない国にダイバーシティーな人材は育たない。不就学児は就労年齢(15歳)になっても低いスキルの労働にしか就けず、劣等感と妬みしか残らない人を増殖してしまうリスクがある。

20年前から自治体レベルでは様々な努力と工夫を重ねて外国人居住者に対する「教育を受ける権利と義務」を促進しているが、そうした試みには敬意と感謝しかないといえる。しかし憲法の義務規定を外国人の親に課すことができない日本はやはりどうみても国際条約を逸脱しているだけではなく、外国人の社会統合政策に反している。

ブラジル憲法の第205条には、「教育は、すべての者の権利かつ国家及び家族の義務で、人間の完全な発育、公民権行使の準備及び労働資格付与を目的とし、社会の協力によって推進及び助成する」という規定がある。こうした精神を日本でももう少し柔軟に適用できれば、外国人児童の不就学問題への対応も全国的にもっとスムーズになるに違いない。

注釈:

1. 「日本の大学進学率が低いって本当?気になるその数字を紹介」 (『ユニヴプレス』、2020.6.12)

文科省、高等教育の将来像・基礎データ

2. 経済的格差が教育格差にも反映しており、富裕層の多い私立学校と低所得者の多い公立学校の教育水準があまりにもかけ離れていることが大きな課題になっている。全体の教育予算が増えても(中には国内総生産GDP6%前後)教員の質が十分に上昇しておらず、国際的な学習到達度調査(PISA)でも生徒の能力は平均よりかなり低い。

Gabriel Sánchez Zinny, “¿Por qué no mejora la educación en América Latina?” (BBC News, 2015.4.11)

3. 「在留外国人統計(旧登録外国人統計)統計表」(法務省)
2019年12月の在留外国人数は2,933,137人であり、アジア諸国からが240万人で南米からは27万人とある。うちブラジル国籍は211,677人で、ペルー国籍は48,669人となっている。すべてが日系人ではないが、ほぼ9割は日系就労者と推計できる。

4. 総合教育政策局男女共同参画共生社会学習・安全課、「外国人の子供の教育の更なる充実に向けた就学状況等調査の実施及び調査結果(速報)」(文科省、2019.9.27) 

5. 文科省、「外国人の子供の不就学実態調査の結果について」、CLARINETサイト、2006年

6. 田中宝紀(NPO青少年自立援助センター)、「外国人の子どもの高校進学率60%に留まる事態も-格差是正願い、支援者らが入試制度調査」(Yahoo News、2017.1.30)

ほかの自治体でもこうしたデータは存在するが、高校進学率は50%前後だとされている。
YSCグローバル・スクール

7. 文科省総合教育政策局「『日本語指導が必要な児童生徒の受入状況等に関する調査』(平成30年度)の結果について
2年ごとに行なわれている調査。外国籍の児童生徒は40,485人で母語別ではポルトガル語が(25.7%)、中国語23.7%(9600人)、フィリピン語19.5%(7893人)、そしてスペイン語が9.4%(3786人)である。

8. 「日本語指導必要な外国人、過去最多5万人超」(『産経新聞』、2019.9.27)
大学進学率は増加しているが、推薦入学者も多く、誰もが競争率が高くて社会的にも評価の高い大学に入学しているとは言えず、その後の就職状況にも反映している。

9. 柴崎敏男、「ダブルリミテッド問題の現状とその支援」(『フィラントロピー』誌、2014.12)

10. 殿村琴子、「外国人子女の不就学問題について」(第一生命研究開発室 Life Design Report, 2008) …

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Escobar: the City of Flowers — The 90th anniversary of Japanese immigration (as of 2019) and rediscovery of my ancestry

Located 50 kilometers north of Argentina’s capital city, Buenos Aires, Escobar is known as “the city of flowers.”1 A flower festival is held in October every year, where they showcase new breed varieties from in and out of the country and have a parade with floats covered with flowers such as carnations, decorated by a number of local groups including the Escobar Nihonjinkai (Japanese Association). They also host a beauty pageant for the flower festival.2 As this two-week festival attracts some hundreds of thousands of people from all around the country, the event has become the city’s big …

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