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日本時間 ~日本語ラジオ放送史~ 《シアトル編》

第2回 大人気の日系音楽番組

第1回を読む>>

中村時計店の日本音曲放送

北米各地をみても、1920年代の定期的な日系ラジオ番組というのはほとんど存在しないなかで、1928年8月24日にシアトルのKFQW局で「日本音曲放送」が開始された。福井県出身の中村政吉が経営していた中村時計商会がスポンサーになった。

同店では時計に加えてラジオや蓄音機の販売も行っていて、試聴のためにラジオを無償で貸し出すといった斬新なアイデアを打ち出していた。同店では、「ラヂオをお買ひなすた方に日本音曲をお聞かせするのも私共のお勉めです」(『大北日報』1928年12月24日号より)としてサービスぶりをアピールしている。

邦字新聞には、番組案内と共に一台百数十ドルのラジオ受信機の宣伝広告が掲載された。この価格は、当時の日本への船便三等往復運賃に相当し、一般庶民にはおいそれとは手の出せるものではなかった。それでも、数少ない富裕層からの需要はあったものと思われる。

中村時計店日本音曲放送広告(『大北日報』1928年10月26日)

この「日本音曲放送」はその放送時間帯により、3つの時期に分けられる。第1期は1928年8月の放送開始から1929年6月までで、月1回、午後8時から1時間の番組である。番組中に日本語のアナウンスがなされたかどうかは定かではない。

「日本音曲放送」という番組名の示す如く、日本から送られたレコードを流すもので、第1回の番組では和洋合奏「神田情調」、童謡「南京言葉」「高峯琵琶三楽奏 双六歌」、民謡「秋田おばこ節」などが放送された。多い時には17曲がリストされており、1枚3分程度のレコードをひたすらかけまくっていた様子が浮かんでくる。11月からは放送局がKPQ局に変更された。

1930年に入り、第2期として午後7時半から30分に縮小された番組が古巣のKFQW局で放送され、そのうちに隔週木曜日の定期番組になった。番組では1回あたり5〜7枚のレコードが放送された。必ず1曲目に平井英子らが歌う子供向けの童謡が入っているのが特徴的である。

また、内容を聞き取れてこそ面白みのある語り物も地元の放送ならではのもので、落語「くしゃみ講談」(笑福亭松鶴)や「喧嘩長屋」(柳家金語楼)、浪花節「小金井小次郎召捕」(木村友衛)、長唄「勧進帳」(芳村伊十郎)、筑前琵琶「佐渡の若竹」(田中旭嶺)などが流された。これらは、聴取者からのリクエストもあったものと思われる。

中村時計店のコミュニティーチェストに関する記事(『新世界』1930年9月28日)

9月25日には日本人コミュニティー・チェストに協力し、放送時間を10分間延長して沖山栄繁(北米日本人会商業会議所会長)が募金活動の説明を行う等、日本人社会の情報機関の役割も担っていたこともわかる。第2期は1931年4月まで継続された。

1931年5月26日からは第3期として新たにKXA局での放送を開始し、6月からは隔週金曜日午後7時からの30分番組となった。レコードを中心とした音楽番組という内容は変わらない。

放送予告を見ると、レビュー小唄「サクラ・オンパレード」(藤本二三吉)、映画小唄「かんかん虫は唄う」(藤本二三吉)、流行小唄「だって淋しいからなのよ」(河原喜久恵)、「日活アクタース・バンド・ナンセンス」(日活アクタースバンド)、流行小唄「イミ深節」(天野喜久代)など楽しそうな題名の曲が並ぶ。もちろん、落語、漫才、浪花節等の演芸物も欠かさず流された。

『大北日報』に掲載されている番組予告をみると、この第3期には地元の邦楽演奏家を中心とした生演奏が取り入れられたことが分かる。これらの日には、琴尺八合奏(服部師範と鳥羽師匠)、三曲合奏(田中とらの、中島つるの、大屋竹風)、筑前琵琶(旭美会 太田師範)、端唄と流行歌(湊一行)、テナー独唱(上出雅孝)等が取り上げられた。KXA局との6ヵ月間の契約が切れ、1931年11月27日が最後の放送になったものと思われる。


日本の夕

1929年1月24日よりKOMO局で「日本の夕」(A Night in Japan)が開始された。毎週木曜日(2月からは金曜日)の放送で、初回は午後9時半、2回目以降は午後9時から30分間放送された。中村時計店のレコード放送とは異なり、地元の音楽家の生演奏を主体とした番組で人気を博した。初日の番組はハーモニカの名手であった佐藤時太郎の演奏であった。

2月22日には服部師範の尺八と、まねき亭の芸妓であったお千代の三味線で「春雨」「御所車」「京の四季」「さざなみ」「ギッチョンチョン」などが放送された。まねき亭は関西料理と大阪式サービスで人気を集め、現在もシアトル日本町でまねき(Maneki)として営業を続けている。お千代のような料亭、地元日本町レストランの芸妓がラジオ放送に出演してその腕前を披露するということは、西海岸各地での日系ラジオ番組に共通している。

3月1日は日本協会主催で2世が出演する番組が編成され、片山姉妹のバイオリン演奏、弁論大会で入賞したワシントン大学学生の植松による英語演説、高吉渡米生のジャズ独唱が流された。高吉のボーカルについて、これまでに聞いた事のない美しい声と賞賛する米人からの手紙が日本協会へ寄せられたという。

3月8日は邦楽特集で、シアトルで歌舞音曲を教える初音会師匠の中谷福子などが出演し、三味線や鼓の演奏が繰り広げられた。この日を以って「日本の夕」は最後の放送となった。

ところで、アメリカの新聞に「日本の夕」に関する面白い記事が掲載されている。ある日の番組エピソードとして、1曲目の演奏が終わり、2曲目に入る直前に三味線の弦が切れた。それを張替える時間を稼ぐために、和楽器や天候の話をしたり、今後の番組の話題に触れたり、ピアノをちょっと弾いてくれと頼んだり、予定外のアドリブを強要されたアメリカ人アナウンサーが苦労させられた様子が描かれている。かくして担当アナは、「日本の夕」はラジオ・アナウンサー向きではない、と結論付けたという。あらかじめ用意された原稿を正確に読むのが当時のアナウンサーに期待された仕事だったようだ。

次回は、三輪堂や古屋商店、『大北日報』などがこぞってラジオ放送参入した1930年代前半の話を取り上げる。

 

*本稿は、日本時間(Japan Hour)』(2020年)からの抜粋で、『北米報知』(2021年12月22日)からの転載です。

 

© 2020 Tetsuya Hirahara

Japanese Radio pre-war radio Seattle

About this series

シアトル地域でラジオ放送が始まったのは1921年。そんな中で、日本語番組や日本音楽番組などの日系ラジオ番組も放送されるようになった。北米で最初に日系ラジオ番組が定期放送されるようになったのはカリフォルニア州オークランドで1927年のこと。翌年1928年にはシアトルでも開始され、その後にサンフランシスコ、ロサンゼルス、サクラメント、バンクーバー、サンノゼ、エルセントロ、バイセリア、ワトソンビルと続いた。

1930年の米国国勢調査によれば、当時の日系人人口はワシントン州全体で1万7087人、シアトル市内で8134人。広告効果は限られているが、日系同胞に向けてスポンサーがついて、いくつかの番組が行われた。このシリーズでは、4回の連載をとおしてそうした番組を紹介する。

*本シリーズは、平原哲也氏の著書『日本時間(Japan Hour)』からの抜粋で、『北米報知』からの転載です。