1940年2月8日に加州毎日放送(第5回参照)での最終放送に臨んだ尾座本導は、番組降板とほぼ同時にガーデナ平原日本人会の幹事に就任した。しかし、ラジオへの情熱は絶ち難かったと思われ、「サンデー毎日放送協会」を設立してラジオ界に復帰した。
サンデー毎日放送
戦前の日本語放送としては最後発となる番組「サンデー毎日放送」が1940年11月3日よりロングビーチのKGER局から放送された。毎週日曜日の朝6時からの1時間番組で、講演、演芸、ニュース等を放送するとしている。
広告が少なくて内容が盛沢山と喜ばれたが、それはとりもなおさず経営上の問題に直結する。そこで、11月22日に加州毎日新聞の後援会に倣った「尾座本放送後援会」を組織する会合が開催された。
ともあれ番組は順調に継続され、1940年末にはリトル東京にある都ホテル212号室に番組の事務所を設けるまでになった。
ラジオ小東京
年が明けて1941年1月からはLittle Tokio Radio Productions制作の「ラジオ小東京」として再出発した。放送時間も水曜日の21時5分からに変更された。
この番組は邦字新聞に早速取り上げられ、番組開始時のアナウンスと思われるものが掲載された。
K・G・E・R・こちらはラヂオ小東京でございます、毎週水曜日の午後9時5分が参りましたら皆様お忘れなく1360キロ・サイクルにダイアルをお合せ下さい。小唄に音楽に、浪曲から落語まで情緒豊かな故国のプログラムが約1時間聞かれます。(『日米』1941年1月4日)
1月8日はロサンゼルス滞在中の陸軍少佐田中軍吉氏との対談を行った。田中少佐は漢口攻略、ノモンハンの激戦に従軍し、鬼部隊長として勇名を馳せた。その一番乗りの従軍談およびノモンハン激戦の現地物語が放送された。
3月26日には特別放送として21時から2時間にわたり仏教青年放送を行った。折しも3月27日から3日間ロサンゼルスで全カリフォルニア州仏教青年大会が開催され、各地から約2000人の参加者が集まった。尾座本は副主事として大会の準備に奔走した。
この番組ではガダループ仏青合唱団、ロンボックのタシロ・スミエ(ボーカル)、ハリウッドのコダマ・ミツオ(アコーデオン)、北フレスノのサリー・ヨコヤマ(歌手)が出演し、番組を盛り上げた。
日米関係が悪化の一途をたどる中、日本人の心構えを説く「時局放送」を日本文化放送協会と交代で6月から担当した。
また、6月15日からは日曜日の6時から7時までKGER局で西部8州の農村、特に第二世のための放送を開始した。いわば「サンデー毎日放送」の復活である。
8月13日(水)には二世週の行事の一つである二世女王コンテスト候補者の1位から3位までの紹介が行われた。併せて前年度の女王であった小林静江へのインタビューとソプラノ歌手松田千代子の歌が流された。
邦字新聞にはその後の動静は伝えられていないが、日米開戦直前まで通常通りの放送が行われて、1941年12月3日(水)および7日(日)がそれぞれ最後の番組になったものと推定される。
*本稿は、『日本時間(Japan Hour)』(2020年)からの抜粋です。