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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第11回 アメリカ移民と父・松次郎の渡米

一旗揚げようと日本を出た?

『米國日系人百年史』のなかで加藤新一が記した自らのプロフィールによれば、父・松次郎は、新一が生まれた年(1900年)に、生まれたばかりの長男新一と妻を広島に残してアメリカに渡った。想像の域を出ないが、おそらく出稼ぎのつもりだったのだろう。

「加藤家のあったあたりは昔は農地で、加藤の家も土地を持っていましたし、松次郎さんがアメリカへ行ったのも、一旗揚げようとしたからでしょう。そういう人はいっぱいいて、成功して帰ってきた人のところへおじさん(新一)が私を連れていってくれたこともありました」と、新一の甥の吉田順治さんは言う。


一気に海外へと向かう

日本人の海外渡航を振り返れば、日米和親条約(1854年)によって長い鎖国の束縛が解かれ、日本人はようやく海外へ出ることができるようになった。ハワイをはじめアメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジル、ペルー、オーストラリア、東南アジアなど、さまざまな国と地域へと向かった。

勉学のため、生活のため、あるいは一獲千金を夢見て移住を図った多くの者をはじめ、外国船の船員になってそのまま移住したり、ジョン万次郎のように漂流の果てに移住したり、さらには売春目的で連れ去られた女性やそうした女性を囲い娼家を営むような悪辣な者もいた。

自らの意志でまとまって移住した例としては、1868(明治元)年にハワイへさとうきび農場の労働者として移住した「元年者」と呼ばれる人たちが最初だ。ハワイへはこのあと農場労働者を必要とするハワイ政府と日本との間の取り決めにより「官約移民」として、1885年から94年までの間に日本から3万人近くが移住した。

しかし、民間の移民会社がいくつも登場して、受け入れ側と日本人の間に立って移住を斡旋するするようになってからは、前渡金を払い就労年数を決められるといった「契約移民」が主流になった。これに対しては非人道的だとしてアメリカ側が禁止し、これに代わって移民会社などを介しての個人の移住が主流になった。

1900年にピークを迎える

アメリカ本土への渡航では、当初最も多いのは留学生だが、その多くは働きながら学ぶ苦学生で、そのうち留学の名目で渡米する出稼ぎ者も増えてきた。出稼ぎ労働者が増えると、移住が本格化していった。

アメリカに渡った者は、とりあえず同郷の者や親戚を頼ったり、就労を斡旋する同胞の伝手を得たりして仕事に就いた。労働者として雇われる場合の仕事はさまざまだ。農場や鉄道工事現場、水産加工場や製材所、鉱山、庭園、外国人家庭などで働き、このなかには得た金をもとに食品店やホテルを経営するほか、美術品を取り扱うなどの商売をはじめる者もいた。

どのくらいの数の日本人がいわゆる移住者としてアメリカに向かったのか、はっきりとした数字はわからないが、いくつかの推計がある。『日本人出稼ぎ移民』(鈴木譲二著、平凡社)のなかでは、「アメリカ向け移民旅券の発給数」が出ている。この数は、『(日本)帝国統計年鑑』から「農業・漁業、職工、雇い・出稼ぎ」として発給された旅券の数を示している。しかし「この中には再渡航者が含まれていることや親の旅券に併記される15歳未満ものは含まれていないため厳密な意味での移民数ではない」という。

この表によると、渡米者総数は1882(明治15)年には、60人で、このうち「労働を目的とするもの」は17人だったのが、10年後の1892(明治25)年には、それぞれ2344人、1552人となり、さらに1900(明治33)年には、1万562人、7142人とピークに達している。

一方、アメリカは、貧困者など社会的に好ましからざる者の移住を禁止するなど外国人移住者を厳しく制限する措置を取り始め、日本人排斥の動きも表面化したため、日本人移民は急増したのち下降傾向となる。そして1908年の日米紳士協約によって、日本から入国が認められる移民は再渡航者と近親者に限られることになった。さらに、1924年の新移民法によってアメリカへの移民はできなくなった。


“移民県”広島から

加藤新一の父、松次郎がカリフォルニアへ渡ったのが1900年、まさに日本からの渡航者がピークに達した時だった。おそらく多くの同郷人がこのとき広島県から海外へ出たと思われる。

広島が“移民県”であることはよく知られている。広島県立文書館では2015年に「広島から世界へ 〜移住者の歴史と現在」と題した特別展示を行ったが、同文書館によれば、「広島県は100以上前から多くの海外移住者を輩出した全国第一位の移民県です。その数は、戦前戦後を通じ10万9893人で、2位の沖縄県が8万9424人、3位の熊本県が7万6802人となっています(移住者数はJAICA横浜海外移住資料館による)」という。

また、1899(明治32)年から1937(昭和12)年までの累計をみても、都道府県別の移民数では、広島県が9万6181人で最も多く、続いて沖縄県6万7650人、熊本県6万7323人、福岡県5万752人、山口県4万5050人という調査記録がある。[『日本史リブレット・海を渡った日本人』(岡部牧夫著、山川出版)より]

広島県からの移民について、さらに同文書館の説明にはこうある。

「広島県から海外への本格的な移民は,1885(明治18)年のハワイ王国への第1回官約移民から始まり,これを皮切りに,移民の渡航先は,北米・中南米・オセアニア太平洋地域へと,次第に広がっていきました。

当初の移民は,高賃金の海外で一定期間働き、稼いだ金を故郷に持ち帰る(送金する)、いわゆる出稼ぎ型の移民が主流で,多くは渡航先への定住を目的としていませんでした。しかし、一方、帰国せず定住者となることを選んだ人々もあり、また、後には、初めから定住を目指す移住も見られるようになります。……」

加藤松次郎も、吉田さんの言うように出稼ぎ型として、こうしたブームともいえる“大移動”の流れにのって単身アメリカへ渡ったのだった。

(敬称一部略)

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© 2021 Ryusuke Kawai

hiroshima migration Shinichi Kato Shin-issei

Sobre esta série

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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