https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/634/
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
(英語)私は、ホノルルの944クック・ストリートに住んでいました。当時まだ大学1年生で、1941年9月にハワイ大学に入学したばかりでした。あの日、私は勉強していました。祝日で、日曜日でしたね。自宅でラジオを聞きながら勉強していました。朝6時か7時頃だったでしょうか、アナウンサーは、「真珠湾海上で大規模な軍事演習が行われています。」と言い、何が起きているか繰り返し説明していました。しばらくしてアナウンサーは、「演習ではありません。本物です!」と言いました。続けて彼は、「紛れもなく、本物の攻撃を受けています!」と言いました。そして、飛行機の翼には赤い日の丸があったという目撃情報に言及しました。その時点で、日本軍が真珠湾を攻撃していることがわかりました。 当時、ハワイ大学の1年生だった私は、毎朝7時から1時間、大学の必須科目として予備役将校養成課程(Reserve Officer Training Corps、以後R.O.T.C.)の軍事訓練を受けることになっていました。ラジオからは、ROTC受講中の全ての学生は、近隣の軍事教練場に連絡するよう通達が流れました。私は軍に連絡し、他の学生たちと共にハワイ準州守備隊(Hawaii Territorial Guard)に配属され、ユニフォームを渡されました。私たちが守備に当たったのは軍事施設ではなく、発電所や水源や資源の保管場所等でした。
日付: 2006年5月29日
場所: 米国、ハワイ州
インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
フランシス・Y・ソギ氏はハワイ島(ビッグアイランド)のコナ、ラニハウに、5人兄弟の末っ子として生まれました。一世の両親は、野菜やバナナ、コーヒー栽培に携わっていました。
1941年18歳でハワイ大学へ進学。大学の必修科目として予備役将校養成課程(Reserve Officer Training Corps。以後R.O.T.C.)の軍事訓練を受けていましたが、真珠湾攻撃後、他の学生と共に一時ハワイ準州守備隊(Hawai‘i Territorial Guard)へ編成されました。しかし、その後すぐ「敵性外国人」とみなされ除隊し、再びハワイ大学へ戻り勉学に励みました。在学中、米国陸軍情報部がハワイ大学の日本語の分かる学生を勧誘しているのを機に、1944年に陸軍入りを志願し、ミネソタ州のキャンプ・サベージとフォート・スネリングの情報学校で訓練を受けました。戦後、アメリカ占領下の日本へ従軍し、米国対敵諜報活動部の書類翻訳などに携わりました。
1947年再びハワイへ戻り、1949年ハワイ大学を卒業しました。その後、ニューヨーク市のフォードハム法科大学へ進み、妻のサラはコロンビア大学へ通いました。ソギ氏は、1952年12月に弁護士試験に合格し、ニューヨーク州法曹界入りを果たしました。1953年ソギ氏は東京にある事務所を持つHunt, Hill & Betts法律事務所に引き抜かれ、ビジネス誌「フォーチュン」でトップ500に入る会社のライセンス契約、ジョイントベンチャー、投資などさまざまな業務を取り扱いました。1967年から1984年にかけて、ソギ氏はMiller Montgomery Spalding & Sogiにも関わり、1984年から定年する1993年までKelley Drye & Warrenにて活躍しました。
慈善事業団体Francis and Sarah Sogi Foundationを妻のサラと共に設立し、現在でも数々の非営利団体の活動をサポートしています。
2011年11月3日に亡くなりました。(2011年11月)
第二次世界大戦開戦時に学校で行われた緊急訓練(英語)
日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)
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(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人
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