ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1710/

1945年8月6日の記憶(英語)

(英語)それは月曜の朝のことでした。とても天気の良い、美しい日だったと記憶しています。学校に行く支度が整っていました。当時日本に夏休みはなく、8月も学校がありました。兄のケニーと私が身支度を整えて学校に向かって歩き始めると、大勢の子供たちが私たちの方に向かって学校から戻ってくるところでした。敵機が広島周辺に警報を出していると教えてくれました。その日は閉校となり、私たちは喜んで家へ帰りました。普段着に着替えた頃にはだいたい午前8時か8時を過ぎていて、その後また空襲警報が鳴りました。

警報が聞こえると、ケニーと私は家の屋根に上り、遠くから飛行機雲が近づいてくるのを見ていました。B-29は、いつも綺麗な飛行機雲を残していたのです。とてもよく晴れた、見晴らしの良い日でした。その時、カンカンに怒った祖母が台所から出てきて私たちに屋根から下りるよう言い付け、兄と私は渋々下りました。

そして兄のケニーは、ゲート、つまり門のある正面へ向かい通り抜けていきました。祖母は、私たちが屋根から下りるのを見届けると台所に戻って食器洗いを再開したのだと思います。私は、母屋の台所の隣にある、お風呂場のあった別の建物に1人で入っていきました。原爆が炸裂、または爆発した時、私はその建物の床下に潜り込んでいました。

(爆心地から)離れた郊外の人々は、ピカッと光った数秒後に大きな爆発があり、すさまじい爆風が吹きつけてきたと言っています。私がいた場所は爆心地から750メートルから1キロ、つまり3300フィートしか離れていませんでした*。爆心地から比較的近かったので、閃光と爆発の間隔は1秒もなかったと思います。

*注:ハワードは、実際は爆心地から1.3キロ(およそ4300フィート)の場所にいた。


原爆 被爆者 ヒバクシャ 広島市 広島県 日本 第二次世界大戦

日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

ジョージ・アリヨシ

戦時中のプロム (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジョージ・アリヨシ

退役軍人の影響 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジーン・アリヨシ

真珠湾攻撃の日 (英語)

ハワイ州知事の元ファーストレディー

カズオ・フナイ

日本と米国

一世実業家(1900-2005)

カズオ・フナイ

東京の会社が焼失

一世実業家(1900-2005)

ジェームス・ヒラバヤシ

10代での収容所生活 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ロバート・カタヤマ

日記をつけるように命令され、後にFBIへ押収(英語)

第2次大戦中に第442連隊に所属していたハワイの二世

バーバラ・カワカミ

真珠湾攻撃 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

兵士たちを手助け (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

兄の出兵、そして生き残ること (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

ユリ・コチヤマ

白人と同じ権利を求めて(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

立ち退き命令を知らないカリフォルニア人(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

真珠湾攻撃の日(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

病院に入った戦時捕虜としての父(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

愛国心 VS. 忠誠心(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)