Descubra a los Nikkei

https://www.discovernikkei.org/es/journal/2009/9/10/iguazu-ijyuchi/

第1回 個人的きっかけ

パラグアイのイグアス日本人移住地は再来年移住50周年を迎えるが、他の移住地と同様、日本への出稼ぎや少子化で日系社会の収縮現象に悩んでいる。

私はいわゆるオーソドックスな移住者、(原始林の開拓に入ってそこから移住生活を始めた人たちとその子孫)ではなく、24年前に首都アスンシオンに個人的に電気技術者として入植?し、現地の会社で働き始めた。そして家族を呼び寄せて移住し、その後16年前にここイグアス移住地に移って来た。したがって開拓すべき土地も、農業用地も所有していないが、日系人の一人としてこの地に永住し、南米の将来のために何かをしたいと願っている者の一人だ。

ところで、私は1年半前に約9年間の日本での出稼ぎ生活を終えてパラグアイに帰って来た。日本に行っていた理由は成長しつつあった子供たちをそこで迎えるためだったが、パラグアイに残された子供たちや妻はずいぶん苦労をしたようだ。

帰って来て気がついたことは、子供たちの生活が以前とはがらりと変わってしまっていたことだ。妻が日本語学校の教師として午前も午後も働いていたせいもあるが、家族がバラバラで好き勝手な生活をしていた。たとえば、家を出て行くときも「行ってまいります」の言葉もなく、帰って来ても「ただいま」の挨拶もない。学校が休みの時は昼近くまで寝ていて、起きて来るとビデオを見て過ごしている。机に座って本を読んだりすることは滅多にない。そして晩御飯を食べ終わると、毎日のようにそれぞれがそそくさと、和太鼓やサッカー、バレーボール、卓球などさまざまなクラブ活動に出かけて行き、夜の10時、11時にならないと帰って来ない生活を続けていた。

それが我が家だけではなく、移住地の若者たちみんながそのような生活を習慣にしていると聞いて驚いた。

聞くところによると、前の年には高校を卒業した若者たちが手っ取り早い就職口を求めて、合計15人も日本へ出稼ぎに行ってしまったということだ。またオビエドというところの全寮制の農業高校へ-そこで勉強するにはかなりのスペイン語の理解力が必要とされるのだが-5人入学した日本人が5人とも学力不足で進級できずに、帰されてしまったということを聞いた。

実際私の息子の一人も、帰されてきて、別の高校へ2回も入りなおして、私が帰ってきた時には、20歳になるのにようやく高校を卒業する歳を迎えていたのである。

パラグアイに生まれた子供たちが、パラグアイの中で仕事を見つけることができず、日本への出稼ぎを繰り返して若い時代を過ごしている。ある人はこれを時代の流れと受け止めるかもしれない。しかし私はこの現状を見て、このままでは日系社会が先細りしてしまうという強烈な危機感を持った。パラグアイに帰って来るに際しては、自分で立ち上げようと予定していた事業もあったが、それよりもこれら移住地の未来を担う子供たちのために、何かをしなければという思いが先に立った。

農協でパソコンの講師を頼まれて30代から50代の大人たちに接してみて分かったことなのだが、今そうして日本に出稼ぎに行ってしまう子供たちの親は、実は開拓者の祖父母たちに連れられて来た人たちで、多くが開拓の忙しさの中で、日本語もスペイン語も中途半端なまま成人してしまった人たちである。そして内的言語が不十分ということは、深く考えることをしないまま、自分たちの生活もさりながら、子供たちの将来についてもあまり考えていないのではと私は恐れたのである。

ある時、農協の前に次のような出稼ぎ勧誘の広告が貼り出されていた。

「あなたは決心するだけで、結構です。男;時給1800円、女;時給1200円、日本国籍を持っている人なら誰でも日本で働けます。」とまあ、こんな感じだった。

私は目を丸くした。日本に住んでいる日本人でさえ、時給800円か900円で働いているのに、どうしてこんなに稼ぐことができるのだろう。

出稼ぎをして金を貯めてここに帰って来る人がいる。ある人は昼も夜も働いて、生活を切り詰めて、とにかく金を貯めて来る。そんな人たちは移住地に帰って来て日本での楽しい生活のことしか話さない。それを聞いた人たちは、日本で働けばとにかくここでの10倍以上の収入が得られ、短い時間に大金を稼いで帰って来ることができると想像するのだ。

ところが私の知っているある日系ブラジル人は、生活に困窮して、どうせ貧乏暮らしをするなら、親と一緒にブラジルで暮らしたいと言って、引き上げて行った。サクセスストーリーは、ほんのわずかでしかないのである。

若い時に日本に少しの間行って、日本での生活を経験し、技術を身に着けたりすることはいいことだと思う。しかしあくまでも、軸足はこのパラグアイに根を下ろして、やがてこの地で日本人として生きて行って欲しいと思うのは私だけではあるまい。

どうしたらいいだろうか。こういう時代だから出稼ぎには行ってもいいかもしれない。しかしその先を考えなければならない。「日系子弟の今後」を長い目で考え、このパラグアイの地で生活の手段を開拓して、本人も生きがいのある人生を送ると共に、社会に有用な人材となって欲しい。・・・そんな思いが忽然と私に湧いてきた。

そんな時,JICAパラグアイ事務所の岩谷豊次長がイグアスを訪ねて来られ、「出前授業」の提案をされたのである。

 

© 2009 Kunio Oyama

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Sobre esta serie

Oyama trabajó como ingeniero eléctrico en la capital, Asunción, hace varias décadas, antes de mudarse a Paraguay con su familia. Actualmente vive con su familia en el asentamiento Iguazú. A través de esta serie, presenta la situación actual de la zona del asentamiento Iguazú a través de experiencias personales.

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Acerca del Autor

Nacido el 31 de julio de 1949 en la prefectura de Ibaraki. A la edad de 19 años, se mudó a la tierra bíblica de Israel, aprendió hebreo en un kibutz y luego estudió "Historia del pensamiento judío" en la Universidad Hebrea. Después de abandonar la escuela, estudió por su cuenta en el extranjero, en Inglaterra y Finlandia, donde aprendió inglés y finlandés. Regresó a Japón, se casó y luego se mudó a Paraguay en Sudamérica. Aprender español. Bendecido con seis hijos y una hija. Aunque regresó a Japón, se mudó nuevamente y actualmente trabaja para mejorar el ambiente educativo de los descendientes de japoneses en Iguazú.

(Actualizado en julio de 2009)

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