ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/937/

学ぶべき教訓 (英語)

(英語)強制収容が影響を及ぼしたのは、日系アメリカ人だけではありませんでした。そしてもちろん、アジア系アメリカ人に限られた問題ではありません。強制収容を行ったのは合衆国政府だった訳ですから、国中の全ての人々に関わる問題なのです。このことから我々が学ぶべき教訓の1つとして挙げられるのは、戦争が起こっている時、そして国の非常事態時には、国民感情は高ぶり、ある特定のグループの人たちが標的にされる可能性があるということです。これは、ペタル判事が発言した内容と同じです。この教訓を学ぶことの重要性を、より多くの人々が理解し、憲法の重みという私たちにとっても最も重要な価値を守るために人々が行動し、犠牲やリスクを恐れないことを願っています。戦時中や国家の危機の最中にあれば、ジョン・J・マクロイがかつて言ったように、「憲法は、ただの紙切れに過ぎない。」という事態に陥りかねない訳ですから。


政府 投獄 監禁 法律

日付: 2000年10月27日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、ロレイン・バンナイ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

1940年ピーター・アイロンズ氏はマサチューセッツ州セイラムに生まれました。アンティオック大学の学生だったアイロンズ氏は、政治運動や社会運動に参加するようになり、人種差別やベトナム戦争、労働者の権利に関わるデモ活動に率先して携わるようになりました。1966年、アイロンズ氏は徴兵拒否により3年の刑を言い渡されました。刑期を終え、政治学の博士号を取得したアイロンズ氏は、ハーバード・ロー・スクール(ハーバード大学の法科大学院)に進みます。そして大学院在学中に再審要求をした裁判で、アイロンズ氏は裁判所が過去に下した判決を無効にすることに成功しました。その後アイロンズ氏は教鞭をとる道を選び、カリフォルニア大学サンディエゴ校の教授となりました。

アイコ・ヨシナガ・ハージック氏が、国立公文書記録管理局から主要文書を発見したことが原動力となり、アイロンズ氏は、最高裁判所が下した強制収容に関わる裁判判決を覆すために動き出すこととなります。その文書は、第二次世界大戦中の合衆国政府の不正行為を示す証拠として、1942年の日系人に対する集団強制収容の「軍事的必要性」の非合理を証明するものとなりました。1983年、ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツの3件で再審要求が申し立てられ、結果的に全ての裁判で、過去の有罪判決が覆されました。それらの裁判による勝利は、日系人に公正な裁きをもたらしただけでなく、同時に補償運動への呼びかけを正当化するものとなりました。(2008年4月15日)

キャサリン・ドイ・トッド

JABAの設立:裁判官への任命(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

J・アンソニー・クラインからの連絡(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

日米文化会館との関わり(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

控訴裁判所での仕事(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

A. ウォーレス・タシマ

優等生ではなかった(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

A. ウォーレス・タシマ

日系アメリカ人弁護士として拒絶される(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

ジミー・コウ・フクハラ

マンザナーでの暴動(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

家族のアマチでの強制収容について会話が不十分だった(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

文化人類学から法学への転向(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ハワード・カキタ

核兵器についての考え(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家