ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

ピーター・アイロンズ

戦時中の裁判の再審要求を担当した弁護士(1940年生)

コレマツ裁判の終結 (英語)

(英語) コレマツ氏が着席すると、ペタル判事は判決を言い渡しました。そして判事は後に記すことになる意見書の基となった声明を発表しました。再審請求がされたことにより、政府の不正行為に関する深刻な問題が浮き彫りにされた、と判事は述べました。決定的となった証拠は、政府管理下の文書として残されていたのです。ぺタル判事は、こうも言いました。「コレマツ裁判は法律書に書き残されることになるでしょう。しかながら、私たちは、世の中が戦争状態にあるとき、このようなことは誰にでも容易に起こり得るということを記憶の中にしっかりと刻み込まなければなりません。そして誰も、このような扱いを受けてはならないのです。」そう言い終えた判事は、立ち上がり、法廷を後にしました。

その後私たちは、しばし言葉を失ったかのようにその場に座り続けていました。しだいに人々が立ち上がると、皆は興奮状態にありました。泣いてる人たちもいました。そして全員がフレッドに走り寄り、彼の背中をたたいて祝福しました。パーティをしているかのような、そんな感じでしたね。私の場合は、抑えきれない感情があふれ出てきて、とにかく胸がいっぱいでした。そんな状態でしたから、自分が報道陣や誰かに話をすることができるかどうか自信がありませんでした。でも私はうれしくてたまらなかったのです。この裁判に挑み始めた時、私はこうなるだろうとは全く予想していませんでした。この時までのさまざまな偶然や出来事が積み重なり、その結果としてこの判決がもたらされたと私は考えています。法廷の中で私は一歩下がったところから周囲を見渡していました。傍聴に来ていた人々のほとんどが日系人でした。私は、この判決が彼らに与えた影響の重大性を痛感していました。


フレッド・コレマツ 法律

日付: 2000年10月27日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、ロレイン・バンナイ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

1940年ピーター・アイロンズ氏はマサチューセッツ州セイラムに生まれました。アンティオック大学の学生だったアイロンズ氏は、政治運動や社会運動に参加するようになり、人種差別やベトナム戦争、労働者の権利に関わるデモ活動に率先して携わるようになりました。1966年、アイロンズ氏は徴兵拒否により3年の刑を言い渡されました。刑期を終え、政治学の博士号を取得したアイロンズ氏は、ハーバード・ロー・スクール(ハーバード大学の法科大学院)に進みます。そして大学院在学中に再審要求をした裁判で、アイロンズ氏は裁判所が過去に下した判決を無効にすることに成功しました。その後アイロンズ氏は教鞭をとる道を選び、カリフォルニア大学サンディエゴ校の教授となりました。

アイコ・ヨシナガ・ハージック氏が、国立公文書記録管理局から主要文書を発見したことが原動力となり、アイロンズ氏は、最高裁判所が下した強制収容に関わる裁判判決を覆すために動き出すこととなります。その文書は、第二次世界大戦中の合衆国政府の不正行為を示す証拠として、1942年の日系人に対する集団強制収容の「軍事的必要性」の非合理を証明するものとなりました。1983年、ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツの3件で再審要求が申し立てられ、結果的に全ての裁判で、過去の有罪判決が覆されました。それらの裁判による勝利は、日系人に公正な裁きをもたらしただけでなく、同時に補償運動への呼びかけを正当化するものとなりました。(2008年4月15日)

ロレイン・バンナイ

「コレマツ対合衆国」裁判を読んで感じた怒り (英語)

弁護士(1955年生)

ロレイン・バンナイ

「コレマツ対合衆国」裁判が与えるアメリカの自由人権への脅威 (英語)

弁護士(1955年生)

ロレイン・バンナイ

「生涯をかける訴訟」に携わったこと (英語)

弁護士(1955年生)

デール・ミナミ

二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

フレッド・コレマツの再審評決が言い渡された時のこと (英語)

弁護士 (1946年生)

デール・ミナミ

コレマツの再審裁判がもたらした歴史的影響と私が感じたこと (英語)

弁護士 (1946年生)

フレッド・コレマツ

最終判決 (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

フレッド・コレマツ

不正を正す (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

ビル・ホソカワ

証拠の強み (英語)

ジャーナリスト (1915 - 2007年)

チエ・トミヒロ

聴聞会の証人委員としての役割 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

キャサリン・ドイ・トッド

「法律を学ぶことになろうとは…」(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

法科大学へ行くことになったいきさつ(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

リトル東京で法律事務所を開業(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

2人の在ロサンゼルス日系女性弁護士――チヨコ・サカモト氏とマッジ・ワタイ氏(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

キャサリン・ドイ・トッド

JABA初期の世代差(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)