ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1720/

妻に放射線障害を打ち明けたことと息子の癌(英語)

(英語)1962年に結婚を決めた時—1962年ですからあなたが生まれるずっと前のことですね—私は妻に、放射線を浴びた過去について話しました。放射線障害があるので、長生きできないかもしれないと妻に伝えました。でも結局は妻をだますことになりましたね。まだ生きていますから。それで私たちは、自分たちの子供に問題が生じる可能性について話し合いました。

私の3つのトラウマについてはお話しました。被爆体験、横川への帰郷、3つ目は米国に帰国した時のことで、これもトラウマになりました。4つ目は、私たちが結婚した後に起こりました。私たちは3人の子供を持ちました。女の子が2人と男の子が1人です。一番上が男の子で、5歳の時に癌で亡くなりました。その原因は放射能なのか、何か別のことなのか、私は医師に「どう思いますか?」といつも尋ねるのですが、「息子さんの死との相関関係はありません」と言われました。

私には、素晴らしい2人の娘がいます。2人とも50歳近いか、1人はもう50歳を越えていると思います。そして孫が4人、男女それぞれ2人ずついます。みんなとても健康そうなので、息子の死は偶然で、私が被爆していなくても起きていたことなのかもしれません。


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日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

トム・ユキ

友好的だった戦後カリフォルニア州ロス・ガトス(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

ケイ・セキマチ

ボブ・ストックスデールとの結婚(英語)

アーティスト(1926年生)

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツル・”ミッツ”・カタオカ

子供たちとのポータブルビデオカメラを使った実験(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

モニカ・タイシャ―

異人種間の結婚の傾向(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

二宮 正人

子供の日本語教育について

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。