(英語)何も覚えていません。閃光も見ていないし、爆破音も聞いていません。爆発後どのくらいの時間が経過していたかは定かではありませんが、覚えているのは意識が戻ったことだけです。その時私は大量の瓦礫の下敷きになっていました。私の上に全て落ちてきていましたが、何分か意識を失っていただけで怪我はありませんでした。
私は自力で抜け出すことができました。周りの物からしだいに煙が上がり、燃え始めていました。私はそこから抜け出して庭の方へ向かいました。その頃までにケニーは門の外から庭に戻っていましたが、小さい放射線やけどを負っていました。おでこに丸いやけどができていたのです。明らかに放射線が当たっていて、頭部に小さな放射線やけどができていました。でも重傷には至りませんでした。
一方祖母は、原爆が爆発した時窓の前にいました。割れたガラスが祖母の体に突き刺さりました。何十もの小さなガラス片が祖母の体に食い込み、大量に出血しました。でも致命傷にはならず、自分で動くことができました。自力で起き上がることができました。祖父は、祖母を救出できるくらいの状態ではあったので、2、3人の男性と一緒に祖母を助けました。そんな訳で、祖父も無事でした。
その頃までには辺り一面が燃え始めていました。私たちの小さな近隣地域の建物は、視界に入る限り全て燃えていました。それで私の祖父は、何人かの男性と一緒に消火してみると言いました。家には汲み上げポンプがあり、祖父たちは水を汲んで火にかけ始めました。しかし被害の規模に気づいていませんでした。町全体が炎に包まれていたのです。祖父たちがやっていたことが何であれ、役に立たなかったことは確かです。それから祖父は祖母に、子供たち、つまり私たちを連れて町を離れ、火が出ていない山に向かうように言いました。祖母は私たちの手を引き、近くに道の通っている川に向かって歩きました。
日付: 2019年9月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: 三木 昌子
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター