ディスカバー・ニッケイ

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アメリカで両親と再会する(英語)

(英語)私たちを育て、完全な壊滅状態から救ってくれた祖父母を残し、私たちの記憶にない米国の両親の元に帰らなければならないと告げられたのは確か1948年1月でした。私たちは泣き叫びました。私たちは米国に帰りたくはありませんでした。おばあちゃんと一緒にいたい、ただそういう気持ちでした。

しかし、泣いたり叫んだりを繰り返しても、1948年3月、祖父母は私たちを横浜からアメリカに向かう船に乗せました。ハワイを経由して目的地に到着するまで2週間かかりました。11歳半の兄と10歳の私、2人だけで船に乗りました。


家族 祖母 祖父母 日本 両親 戦後 第二次世界大戦

日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

タカヨ・フィッシャー

戦後の米国で人種的に自分が何者なのか混乱(英語)

日系アメリカ人二世、舞台、映画、テレビ女優 (1932年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。