ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1078/

アメリカへの揺るがぬ想いと日本への共感(英語)

(英語)この戦争は、父と母が戦っているようなものでした。僕の両親はアメリカを敵視するどころかアメリカを愛し、同様に日本も愛していました。両親の愛する2つの国の戦争は、僕にとっても最悪のことでした。何と言うか、どうすればいいんだ、という気持ちでした。日本の攻撃が成功すると、ああ良かった、と思いました。攻撃に成功するということは、強い国なんだな、と思いましたよ。

でも、何というか、どちらつかずの複雑な気持ちでした。両方の国を愛しながら、一方を選ばなければならない状況でした。もちろん僕はアメリカ人ですから、アメリカへの揺るがぬ気持ちがありつつ、日本の状況に対する理解もありました。それから、ある牧師は、ぎりぎりまで戦争をくい止めようとしていました。牧師の名前は忘れましたが、たくさんのアメリカ人が戦争を防ごうとしていました。日本が置かれた状況を理解していたのでしょう。

もし、僕が白人の顔をしていたら、ワシントンに呼ばれて半ば日本の専門家のように扱われていたかもしれません。でも、この顔立ちでは自動的に日本の味方と思われてしまうのです。


愛国心 第二次世界大戦

日付: 2005年3月25日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ソージン・キム

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。

2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。

2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)

ハワード・カキタ

原爆投下直後(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

不運だった親戚たち(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

核兵器についての考え(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士