Takamichi "Taka" Go

オレンジコースト大学、カリフォルニア州立大学フラトン校、横浜市立大学にて、アメリカ社会の歴史、日系人社会の歴史を含めるアジア大洋州系アメリカ人社会のを学ぶ。現在はいくつかの学会に所属しつつ、独自に日系人社会の歴史、とりわけ日系人社会と日本社会を「つなぐ」ために研究を継続している。また外国に「つながり」をもつ日本人という特殊な立場から、現在の日本社会における内向き志向、さらには排外主義の風潮に警鐘を鳴らしつつ、日本社会における多文化共生について積極的に意見を発信している。

(2016年12月 更新)  

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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その4

>>その3南カリフォルニア大学における人種差別1950年代を迎えると、三世の日系人が高等教育を受けるようになりました。そのなかでも、医療従事者を目指すものが増えてきました。ハワードさんの甥である、永松先生もそのひとりです。 しかしながら、高等教育を希望する学生にとって、教育現場における差別は深刻な社会問題でした。特に、当時の南カリフォルニア大学の歯学部においては、日系人をふくめたアジア系学生に対する人種差別が激しかったのです。 永松先生はわたしに宛てた手紙のなかで、このようなことを書いていました。 「白人の上級生が、新入生にあいさつをする機会があったのだが、その白人は、白人の新入生にだけ、ひとりひとり、丁寧に、それも非常に親しく挨拶をしていた。しかしながら、私にたいしては、一度たりとも挨拶をすることはなかった。その白人は、私の前をとおりすぎて、私のことを無視したのだ。」 さらに、日系だけではなくアジア系の学生たちは学内にある医療器具を自由に使うことができず、歯科医師になるための勉強を思うように進めることができませんでした。 驚くべき行動 南カリフォルニア大学に通う日系人の学生たちが激しい人種差別を受けたいたことを知ったハワードさんは、差別と偏見に耐えていた学生たちを支援するために、驚くべき行動に出ました。それは、南カリフォルニア大学に在籍する人種差別と闘っている歯学部の学生たちに…

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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その3

>>その2フレズノへの「かなわぬ逃避」1941年12月7日、ハワードさんと永松家の人々は、いつものように教会での礼拝を終えて家にいました。そのとき、ラジオで信じがたいニュースが流れたのです。日米戦争の勃発でした。戦争が起きたこと、そして高まる反日感情への危惧感などから、永松家の人々は家のなかでじっとしていました。これから何をすべきか、わからなかったからです。日系人にとって、日米戦争はありえない出来事であって、戦争勃発直後は多くの日系人が恐怖感におそわれたのです。 そして、永松家はひとつの決断をくだしました。それは、オレンジ郡を離れ、ジョージさんの弟であるトーマスさんが住むフレズノ郡のデル・レイへ住むことでした。住み慣れた地域を離れることは、非常に辛い決断でした。家を出ること、それは財産を放棄することにもつながります。数十年の時をかけて創りあげたかけがえのない家族、そして財産が水の泡になってしまいます。しかし、それが最善の選択であると信じ、ハワードさんも永松家と共にフレズノへ移住しました。 その後、大統領行政命令9066号によって、日系人の強制収容が執行されました。執行にあたっては、はじめにロサンゼルスのターミナル・アイランド地区と、シアトルのベインブリッジ・アイランド地区にいた日系人がマンザナーに収容されました。それを皮切りに、太平洋岸の主要都市に住んでいた日系人が次々と収容…

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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その2

>>その1千代子さんの結婚アメリカに戻った千代子さんは、キングス一家の紹介で、ニューポート・ビーチに住んでいたキングス一家の親類ウインクラー一家と一緒に暮らすことになりました。千代子さんは住みこみのベビー・シッターの仕事をしつつ、ガーデングローブにあった日本語学校で教師として働きました。当時は、まだオレンジ郡には路面電車がありました。千代子さんは電車に乗って、ニューポートビーチからガーデングローブに通いました。 まもなくして、千代子さんはジョージ・永松さんと結婚することになりました。ジョージ・永松さんは、永松家の長男で、弟のフランクさんとともに、当時の最先端の農業技術を活用して、オレンジ郡のガーデングローブで青唐辛子の栽培を行っていました。その当時のオレンジ郡では、青唐辛子の栽培がさかんで、アメリカで消費される青唐辛子の多くが、オレンジ郡の日系人によって栽培されていました。 そんなふたりが出会ったきっかけは、その当時、日系社会の交流行事のひとつとして行われていた運動会でした。子供たちを引率する先生として運動会に参加していた千代子さんが、ジョージさんの目にとまったのです。子供たちの引率という役目があった千代子さんですが、ラフな格好で参加することが望ましいとされた運動会に、その日彼女はおしゃれな服装で出向きました。そのため、彼女の格好はとても目立つものでした。以来、ジョージさんは千代…

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ある帰米二世の軌跡: 歯科技工士 ハワード・小川さん -その1

先日、わたしの研究活動を長年にわたって支えてくださっている、ロサンゼルスで歯科医院を営んでいる、アーネスト・永松先生から、先生の叔父ハワード・小川さんのドキュメンタリー作品をつくっているとのメッセージを受け取りました。 わたしがアート・ハンセン先生のご指導のもとでカリフォルニア州オレンジ郡の日系社会の研究をやっていたときに、一番最初にオーラル・ヒストリーに応じてくださったのが、ハワードさんと、彼の姉であり、永松先生の母親でもある千代子さんでした。永松先生とハワードさんは、甥と叔父の関係にあたります。 ハワードさんと千代子さんは、帰米とよばれる日系二世です。帰米はほかの二世と同じようにアメリカで生まれましたが、家族や親類の都合、あるいは、両親である一世の意向などによって、幼少期から少年期までのあいだを日本で過ごし、日本で教育を受けた日系人です。 千代子さんとハワードさんのオーラル・ヒストリーに、わたしは非常に強い力を感じました。ふたりの「語り」をとおして、活きること(生きること)の素晴らしさ、希望を持ちつづけることの大切さ、信仰の大切さ、さらには正義をつらぬくことの大切さを、わたしは学びました。 悲劇 ハワードさんは1919年4月17日、カリフォルニア州北部のバークレーで生まれました。ハワードさんが生まれてまもなく、彼の父親はこの世を去りました。さらに悲しいことに、父…

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日系史は私の「パートナー」

私の日系史研究は、今年で7年目を迎えました。この7年間、私はマンザナーやツール・レイクに足を運び、オーラル・ヒストリーに取り組み、JAリビングレガシーの活動に参加するようになりました。さらには、ディスカバーニッケイのユーザー、ニマ会の一員としてエッセイを書いてきました。 日系史研究をやっていると、そのきっかけに関する質問を受けることがあります。その度に私は、「『さらばマンザナー(Farewell to Manzanar)』を読んだのがきっかけです。」と答えています。 しかし、もっと大切な理由があるのです。これには、私自身のアイデンティティが関係しています。今回はそのことについて書いてみたいと思います。 私はハパです!そして、私は日本人です!私は、日本の国籍を持っています。 私は、日本人です。私は、日本語を話します。私の名前は、日本名です。私の父親は、日本人です。そして、私の母親は、漢民族で、内省人の台湾人です。 日本社会では、私のように外国出身の親を持つ人々は、ハーフ、あいのこ、さらには混血児と呼ばれています。しかし、差別や偏見の意味が含まれていることが多いこれらの言葉が使われることに、私は強い抵抗感を感じます。そのため、私が自己紹介をするときは、「ハパの日本人」、「台湾系の日本人」、「台湾にルーツをもつ日本人」、という表現を使います。特に、私はハワイ語を使ったハパを好んで使いま…

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