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戦前シカゴの日本人

梅子と筆子のシカゴ

日本の女子教育家で津田塾大学の創始者である津田梅子のことは、日本人の誰もが知っていると言っても決して過言ではなかろう。梅子はシカゴに2回やってきた。

岩倉使節団に同行した女子留学生5名。当時梅子は最年少。

梅子が初めてシカゴに足を踏み入れたのは1872年2月のことである。100人を超える岩倉使節団がシカゴにやってきたときだ。使節団には5人の少女が含まれていたが、梅子はそのうちの一人で、最年少の8歳だった。地元紙は、少女たちのことはほとんど話題にしなかった。

というのも、シカゴに来るまで、付き添いのアメリカ公使デロング夫人は、少女たちの着物姿で話題をさらおうとして、少女たちが洋服を希望しても、なかなか洋服を買ってやろうとはしなかった。業を煮やした少女たちは、とうとう岩倉具視に懇願を繰り返して、やっとシカゴで洋服を手にいれた。デロング夫人が懸念した通り、洋服姿の少女たちはメディアの注目には値しなかったのだろう。

ただ使節団の訪問を期待していたにもかかわらず、素通りされた旧制シカゴ大学だけが、「少女の一人がすごく美しいと聞いていたけど、まあ、大したことはないんでしょ」と、恨みがましい記事を残した。

使節団がシカゴを離れた日からちょうど20年目の1892年2月27日、梅子はシカゴレコード紙に手記を寄せた。自分がアメリカで受けた教育が日本の女子教育の発展に力を発揮していることを報告し、「アメリカは第二の故郷」とアメリカへの感謝の気持ちを表わした。 

渡辺(石井)筆子(写真提供:滝乃川学園)

二度めの訪問は1898年6月だった。世界漫遊中に訪日したGeneral Federation of Women’s Clubsの副会長アリス・ブリードが、数か月後にコロラド州デンバーで開かれるクラブの大会に日本代表を送るよう、文部省に懇請したのである。急遽、梅子と渡辺筆子が選ばれ、二人はデンバーに出かけていった。渡辺筆子とはのちに、日本で最初の知的障碍児学校を設立した石井筆子として名を残す女性である。

デンバーでの大会には、シカゴからジェーン・アダムスも出席していた。クラブの総会でアダムスは、自らが創立したセツルメント「ハルハウス」の活動を紹介した。梅子もまた、自分が派遣された顛末と、日本の皇后が深く女子教育と婦人問題に心を注いていることを話し、今回のブリード副会長の日本訪問は「東西女子の相提携すべき」橋渡しとなった、とスピーチした。筆子は、数か月アメリカに滞在して、各方面の実地について真相を学んで帰りたいとあいさつした。着物姿の二人がスピーチを終えると、驚きの目で二人に見入っていた聴衆が二人を取り囲み、握手を求め、質問ぜめにしたという。 

津田梅子(1900年頃)

ブリード副会長の斡旋で、デンバーからシカゴまでのユニオン・パシフィック鉄道の特急券を手にいれた二人は、予定より1日早い6月31日にシカゴのユニオン駅に着いた。

シカゴの日本領事館はその前年の1897年に開設されていた。梅子たちは、能勢辰五郎領事にシカゴ案内を頼んでいたが、予定が早まったせいで、誰も駅まで二人を迎えにきていなかった。仕方なく二人は、有名なパーマーハウスに宿をとり、ホテルの人間に日本領事館の場所を尋ねた。「日本人の店なら知っている」と言われ、教えられたところに行ってみると中国人の店だった。

今度は、店の中国人に日本領事館の場所を尋ねると、「日の出屋」という日本人の店を紹介された。「日の出屋」は、和歌山県出身の西亀之助が開いていた日本雑貨屋である。ようやく二人は日本人に出会い、西が二人を無事に日本領事館に連れていった。

この当時の日本領事館はChamber of Commerceビル(148 Washington)内にあった。ある旅行者は、「我帝国の領事館だから、さぞ立派と思いきや、実際七層楼の大建築であるの3階の部屋を2室借りたものーこれが世界の一等国の領事館かと言いたくなった」という感想を残している。 

翌7月1日、能勢領事の案内で、二人はまずシカゴ大学を訪ねた。7月2日は、ジェーン・アダムスのセツルメント「ハルハウス」を訪ね、アダムスに会った。というのも、「ハルハウス」は日本でもよく知られており、二人は出発前に、外山文部大臣に「シカゴに赴かば、必ずミスアダムスの社会事業を見てこられよ」とアドバイスを受けていたからだ。二人は、「ハルハウス」内に設けられた託児所や簡易食堂などの施設を見学した。

シカゴのハルハウス

親が働いているあいだ、子供を預けられる託児所を、筆子は「実に親助けのいい事業」と考えた。日本にはまだなかったのだろうか。簡易食堂には、終日働きつめた労働者や独身者がやってきた。能勢領事が「一つ試してはどうですか」と試食を勧めたが、梅子たちは気がすすまず、お茶を一杯飲むだけで済ませた。食器はとても清潔だったと記録されている。

翌7月3日、二人は別れた。梅子は東部へ向かったが、筆子はそのまましばらく中西部にとどまった。筆子は、1879年にユリシーズ・グラント元大統領が長崎を訪問した際に、グラントと直接言葉を交わし、グラントから署名いりの写真を受け取っていた。シカゴのリンカーン公園にあるリンカーン像や、グラント公園にあるグラント像には感慨深いものがあっただろう。そして「ハルハウス」以外にも、孤児院や小児病院、養老院、公衆浴場など、いくつもの社会福祉施設を訪ねた。これらの訪問が、帰国後の筆子の思想や活動に大きな影響を与えたことは間違いなかろう。

シカゴは、1871年10月に起きた大火事の大惨事のあと、急激に工業化が進み、大都市へと急成長した。そのエネルギッシュな姿に、開国後またたくまに世界で通用する国力を身につけた日本を重ねる人々もいた。が、世界中から労働移民を呼び込んだシカゴの巨大なエネルギーの影には、豊かな社会のひずみ、汚泥にまみれたスラム生活にあえぐ大勢の外国人移民労働者とその家族がいた。

1894年の日清戦争後、めざましい経済成長を遂げた日本で、社会主義研究会が生まれたのは1898年10月のことである。会には、シカゴと縁のあった片山潜や河上清、村井知至らが集まっていた。シカゴ滞在中の梅子や筆子の眼に映っていたのは、あるべき新しい日本社会と女性像を模索する二人が、シカゴの現実に立ち向かうジェーン・アダムスたちの活動に自らを重ねあわせた姿だったのではあるまいか。  

 

© 2024 Takako Day

Chicago educators Fudeko Ishii Iwakura Mission Umeko Tsuda Watanabe Fudeko

About this series

これまで日本人移民史といえば、ハワイと西海岸を中心にして語られてきた。日本人の人口が多く、日本町では多くの物語が生まれたからだろう。戦前シカゴには日本町はなかった。国勢調査によると、日本人の人口は1930年が最大だったが、524人を数えたにすぎず、中国人2757人の5分の1ほどだった。1930年のシカゴ市の人口は約338万人。その中の500人あまりは、吹けば飛ぶような存在と見なされても当然だろう。

しかし、そうではなかった。数は少なかったが、日本人には存在感があった。「たった一人」の存在感である。それはまさしく、未開の土地を自分の手で切り開いていったアメリカ人のパイオニア精神にも匹敵する存在感といってもいいだろう。戦前シカゴの日本人は、今日まで続く日本人に対する一般的なステレオタイプ、たとえば集団で行動するとか「顔」が見えないといったイメージを自らの手で破り、生き生きとシカゴで生活していた。このシリーズでは、「たった一人」でシカゴのアメリカ社会に向き合ったユニークな日本人たちを紹介する。