>>その5
4.『鉄柵』の特色と果たした役割
『鉄柵』の特色は、第一に一世の指導の下に創られた帰米二世の文学同人誌であること。加川文一、泊良彦など戦前から詩人や歌人として評価を得ている一世が指導的立場にいて、主力は帰米二世の若者たちであった。彼らはきわめて身軽な独身者で、ある意味では収容所を読書と思索、創作の場とすることができた。この時期は日系社会の主導権が一世から二世へと移行した時代であるが、この世代交代は文学の世界でも同様で、一世の指導のもとに帰米二世という新しい世代の台頭を促したのが『鉄柵』であった。
第二に水準を設けて掲載作品の選考を行ったこと。「お高くとまっている」などと悪口を言われながらも、水準に満たない作品の掲載を断ることで、文学作品の質を高めようとした。同人は各号が出るごとに合評会を開いてお互いの作品を批評しあった。したがって同人はつねに作品を向上させようと努力した。他の収容所雑誌では、持ち込まれた原稿はほぼすべて掲載された。選択をした場合、その基準は文学的な質の高さではなく、監理当局の方針に合うか否かであったが、ここでは暇つぶしに書いた駄文は排除された。
第三に同人の数が少なく、一人が多くの力作を載せていること。短詩型文学を除いて、作品を書いているのは男子が多い。
第四に作品のテーマは収容所生活に限られていること。他の雑誌に必ず見られる日本で過ごした日々への追憶・郷愁といったテーマは、ここではほとんど見当たらない。同人は真剣に収容所の現実を直視していた。加川文一は随筆「つまらぬもの」(第3号)のなかで、収容所には日本人が従来文学のテーマとして求めてきた自然の美がほとんど存在しないが、一見「つまらぬの」として既成の価値観では認めえなかったもののなかに文学のテーマを探りあてていくべきだと説いている。つまり美しい花がなければ詩が書けないというのでは、収容所文学は成立しない。同人は加川の提唱したこのような考え方を心に留めながら創作に励んだ。収容所の生活にテーマを求めたことは同時に、同人が自分たちの文学は日本文学の模倣ではなく、日本移民文学なのだと自覚していた証拠でもある。加川は、創刊号の「巻頭言」で、この文学活動は「移民地に最後の花をさかせてゐる」と述べている。とくに帰米二世たちは、日本へ行く前になんとかしてアメリカに自分たちの文学を残そうという気持ちにつき動かされながら書いたと思われる。
「移民地に最後の花」という言葉から、加川は日本へ帰るつもりであったと推測できる。しかし戦争が終わると加川夫妻はアメリカに留まった。『鉄柵』に係わった人びとのなかで実際に日本へ帰ったのは、泊、水戸川、小谷くらいであった。山城はニューヨーク、河合はシカゴと同人は一時中西部や東部へ行ったが最終的にはカリフォルニアへ戻った。野沢と藤田はテキサス州クリスタルシティの抑留所を経て、やはりカリフォルニアへ帰った。
その後、同人たちは生活再建に必死で、作品を書くどころではなかった。ようやく生活が落ち着いた1956年、藤田など『鉄柵』同人が中心となってロサンジェルスに「十人会」という文芸人の集まりが発足した。「十人会」は雑誌を創らず、『羅府新報』の文芸欄に投稿した。そのころ野沢が『羅府新報』に入社しており、文芸欄を充実させようと張り切っていた。当時、この新聞には短詩型文学のほか「置き時計」という随筆欄と加川が担当する「木曜随想」があった。「十人会」は「南加文芸会」となって発展的に解消した。
1965年、「南加文芸会」の人びとの努力が実り、本格的な文学同人誌『南加文藝』が誕生する。『南加文藝』を創刊した人びとの大多数は、かつての『鉄柵』同人であった。日本へ去った水戸川もふたたび帰米して第2号から登場した。『南加文藝』は1986年に特別号を出して活動を終えるまで20年間も続き、日系アメリカ文学の歴史に多大の業績を残した。
『鉄柵』同人のなかで、『南加文藝』に加わった人は、加川文一、桐田しづ、藤田晃、山城正雄、水戸川光雄、野沢襄二、矢野喜代土、外川明、伊藤正、谷崎不二夫、矢尾嘉夫であった。のちに藤田は小説『農地の光景』、『立退きの季節』を、山城は随筆集『遠い対岸』および『帰米二世』を日本で出版し注目を浴びた。第5号から鉄筆を担当した帰米二世加屋良晴は、『南加文藝』でも創刊号から最後まで鉄筆を担当し、編集長も兼任した。農園労働に明け暮れて文学に縁遠かった加屋は、『鉄柵』と出会ってはじめて文芸誌を創る楽しさを知った。加屋のその後の人生は『鉄柵』との出会いによって大きく変化したのである。
収容所内で『鉄柵』同人が生みの苦しみを味わいながら習作を書き、お互いに競い合って優れた作品を創り出そうとした努力は、戦後の帰米二世文学隆盛期の土台となったのである。強制収容は不幸なことであったが、日系文学にとっては幸いな時期であったといえるかもしれない。『鉄柵』は若い帰米二世の作家を育て、ほかのアメリカ文学に例を見ない帰米二世文学を生み出したのである。
* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。
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