Sataye Shinoda

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その5/5

その4>>4. 終刊までの経緯と『南加文藝』が果した役割創刊号は200部発行されたが、発行部数は次第に増えて第21号から25号までは倍の420部になった。藤田を中心にした熱心な合評会も毎号欠かさず開かれていた。 1981年、30号を記念して東京のれんが書房新社から『南加文芸選集』が出版された。発行部数は1,000部、この中には1965年から80年までに発表されたものの中の秀作が収められている。去った山城、野本もこの時にはすでに和解しており、二人の評論も含まれている。日本で発行されたことは、アメリカでこのような日本語の文学同人誌が続いていることを日本人に知らしめた。日本の伝統から離れることで新しさを求める現代日本の作家の作品から日本人は異国を感じ、逆に日系人の作品から日本を感じるという書評があり(『読売新聞』82年11月18日付)、日系人の作品が日本らしさをとどめているのはなぜかと論じられた。しかしこの本は私家版で流通に限界があり、日本で出版されながら一般の日本人の手にはいらないという結果になった。 『南加文藝』はこの選集を最後に歴史を閉じるはずであった。事務局をつとめていた加屋良晴の体力が限界にきたという理由である。60歳を過ぎた加屋には徹夜で謄写版の原紙を切る体力はなかった。原稿も以前ほど集らなくなったと藤田は気をもんで、いくども編集後記で訴えた。古くからの有力な同人は老齢に達…

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その4/5

その3>>水戸川光雄は、トゥーリレイクの『鉄柵』時代からキラリと光る短編を書いて、その才能の片鱗が見えたが、『南加文藝』でも藤田に劣らず多くの作品を発表している。彼は第2号から23篇の短編小説を載せている。「風と埃」(第9号)、「焦点のない日々」(第15、16号)、「曳かれ者の歌」(第22、23号)、「雪の朝」(第28,29号)「我らは貨物なり」(第34号)など圧倒的に強制収容所とその後の抑留所生活をテーマにしたものが多い。これらは収容所内で書いていたものの続きと言える一連の作品群である。 この他に老人を描いたいくつかの佳作がある。「くわい頭」(第30号)は年老いた母を郷里に訪ねる話、「差し繰られた人生」(第5号)は心ならずも独身のまま88歳を迎えた一世の老人が、日本の親戚からも拒否され、帰りつく場を失ってアメリカで骨を埋める決心をする話である。 もっとも優れているのは、「素麺会」(第2号)、「灰色の墓地」(第6号)である。「素麺会」の主人公は苦労して育てた専門職の息子が結婚し、ほっとしたのも束の間で妻に先立たれる。息子は片言の日本語をあやつって優しくしてくれるが、嫁は日本語ができない上、生活様式もまったく違うので、主人公は戸惑うばかりで、ついに家の中に身の置き所がなくなって町へ飛び出し、「素麺会」なるものと出会う。「素麺会」とは素麺を茹でるとき「おっても、おらなくてもよい」とい…

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その3/5

その2>>3.『南加文藝』の内容『南加文藝』の作品には三つの流れがある。第一は戦前から創作を続けてきた一世の作品である。これらの人びとにはまず加川文一が挙げられるが、その他、文一夫人の桐田しづ、外川明、矢尾嘉夫、萩尾芋作など短詩型文学の人が多い。 第二は創作の中心となった帰米二世グループである。加川文一は指導的立場にいたが、実質的なリーダーは藤田晃であった。彼は編集だけでなく、自らもエネルギッシュにたくさんの小説を書き、毎月の合評会で手厳しく作品を批評した。彼らの作品を文学のレベルにまで高めようとする熱意につき動かされながら藤田は活動した。これら帰米二世にはトゥーリレイク出身者が多いが、ポストンやマンザナにいた忠誠組の人びとも加わっていた。 第三のグループは戦後移住者である。山中真知子は創刊当時から参加してずっと中心的存在の一人になっていたが、3 号から短歌の松江久志、4号から野本一平、5号から森美那子と次第に多彩な人びとが加わった。これらの人びとは一世、二世とはまったく異なる背景を持ち、すでに一世らによって基礎が固められた日系社会にはいってきた若者であったため、とくに二世との軋轢が多かったようである。 新公民権法が成立したのちは、それぞれがエスニック・アイデンティティを主張し、日系人への差別も戦前ほどひどくなかったことから、二世は戦後移住者を一世・二世の苦労を知らず、アメリカ生…

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その2/5

その1>>2.「十人会」から「南加文芸社」へ          胸ぬちにうづく思ひは言ふを得ず歌になし得ず涙流るる                                                      内田 静 (『羅府新報』1946年6月21日付) この短歌は日本の降伏によりすっかり混乱して、自分の思いを表現できずに沈黙した一世の気持ちを代弁している。日系社会は完全に世代交代して二世の時代になっていた。戦争中にアメリカ政府に協力し、日系人の立退きをすすめた全米日系アメリカ市民協会(JACL)は日系人を代表する組織になった。戦中の忠誠登録は戦後もずっと尾を引き、これによっ…

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その1/5

『南加文藝』はアメリカでもっとも長続きした日本語による文芸同人誌である。第二次大戦中、ヒラリヴァー強制収容所の『若人』に始まった帰米二世の文芸活動は、トゥーリレイク隔離収容所の『怒濤』、『鉄柵』を経て、戦後はニューヨークで『NY文藝』およびロサンゼルスで『南加文藝』となった。『南加文藝』は『NY文藝』が終わったあとも続き、1986年の『南加文芸特別号』の出版で20年の歴史に幕を下ろした。『南加文藝』は戦争の中で芽ぶいた帰米二世文学が木となって咲かせた花ともいうべきものである。 しかしこれは帰米二世にとどまらず、新しい戦後移住者の文学の種を蒔くことになった。その種もやがて芽を出し、枝葉を茂らせた。戦後移住者の参加はそのテーマを農村の狭い日系コミュニティの中からさまざまな人種と接触する都会へと広がりのあるものに変えた。従来の日系文学に新しい傾向が生まれたのである。『南加文藝』は日本へも紹介され、日系文学研究の中で必ず言及されてきた。しかしあまりにも膨大であるため、まだ研究は進んでいない。ここに『南加文藝』20年の軌跡をたどり概観してみることにする。 1.生活再建の時代-収容所を出た日系文芸人 時です――偉大なる時の回転ですおまえのあふりを食らった人間の群が世界の一隅でよろめいてゐます 時です――荒々しき時の足音ですおまえの重き足の下に白き腹を見せながら喘いでゐる人々の群があります&…

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