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『南加文藝』-ロサンゼルスに根づいた文芸誌 -その3/5

その2>>

3.『南加文藝』の内容

『南加文藝』の作品には三つの流れがある。第一は戦前から創作を続けてきた一世の作品である。これらの人びとにはまず加川文一が挙げられるが、その他、文一夫人の桐田しづ、外川明、矢尾嘉夫、萩尾芋作など短詩型文学の人が多い。

第二は創作の中心となった帰米二世グループである。加川文一は指導的立場にいたが、実質的なリーダーは藤田晃であった。彼は編集だけでなく、自らもエネルギッシュにたくさんの小説を書き、毎月の合評会で手厳しく作品を批評した。彼らの作品を文学のレベルにまで高めようとする熱意につき動かされながら藤田は活動した。これら帰米二世にはトゥーリレイク出身者が多いが、ポストンやマンザナにいた忠誠組の人びとも加わっていた。

第三のグループは戦後移住者である。山中真知子は創刊当時から参加してずっと中心的存在の一人になっていたが、3 号から短歌の松江久志、4号から野本一平、5号から森美那子と次第に多彩な人びとが加わった。これらの人びとは一世、二世とはまったく異なる背景を持ち、すでに一世らによって基礎が固められた日系社会にはいってきた若者であったため、とくに二世との軋轢が多かったようである。

新公民権法が成立したのちは、それぞれがエスニック・アイデンティティを主張し、日系人への差別も戦前ほどひどくなかったことから、二世は戦後移住者を一世・二世の苦労を知らず、アメリカ生活の良いところだけを享受していると非難した。彼らにとって日本は遠い対岸の国ではなく、ジェット機でいつでも往復できる国であった。さらに日本の経済力という背景もあった。片道切符を手に渡米して、排日の嵐の中を汗水たらして働いたのは遠い昔のことであった。『南加文藝』も例外でなく、内部では反目もあったようである。20号以降はスタール・富子が加わって、さらに戦後移住者のパワーが勢いを増した。

『南加文藝』に掲載された作品には日常生活に題材を求め、個人の体験を踏まえた作品が多いのは以前と変らない傾向である。形態もさまざまであるが、小説、随筆、紀行文、評論、詩、短歌があり、俳句や川柳は含まれていない。これは小説に重点をおきたいという編集方針の表れである。

(1)一世の作品

一世はすでに老年に達しており、作品は少ない。それでも加川文一はリーダーとして毎号に詩を載せている。しかしその詩は自らの老いを反映してか、暗く寂しいものが多い。猫を相手に妻と暮す日常で、彼は老いを避けられないものとして見つめながら詩を書いた。「古箒」(第2号)では自分をすりきれた箒にたとえ、「荒廃」(第30号)では晩年のベートーヴェンを想い、「荷車」(第29号)では「時代にとり残され、誰にも相手にされない詩」を自分を貫くために書き続けると言う。次々と新しい感覚をもつ詩人が現れるなかで加川は自分の時代は終わったということを実感していたにちがいない。

彼は受診を勧める皆の心配をよそに、医師を拒否して自分の信念を貫き、1981年の暮に亡くなった。加川の妻の歌人桐田しづは『鉄柵』以来の同人である。36号のうち16号に短歌と短文を載せている。桐田の歌はケネディ大統領の暗殺やベトナム戦争などさまざまな話題が盛り込まれていて、幅広い関心の持主であることが分かる。

外川明は詩を作らず、「南加詩壇回顧」を創刊号から27号まで連載した。日系人の作品は出版されたものも少なく、いわゆる文芸人と言われた人びとの経歴もほとんど不明であることから、この回顧録は文学史上貴重な文献となっている。同じく『ポストン文藝』に詳細な収容所生活の記録を書いた貴家しま子は、ポストン収容所の木にまつわる随筆「めぐりあい」(第4号)のみで、1978年に亡くなった。

第1号から4号まで毎号詩を載せている萩尾芋作は特異な詩人である。彼の詩は一度読むと忘れられないほどユニークなもので、移民のことばを使い、思った通りを綴った素朴な詩であるが、読む者の心に響く。学歴もなく農業一筋に働いて、8人の子を育てた。書きためた詩を1961年に私家版の『移民のうた』にまとめ、67年に80歳で亡くなった。

(2)帰米二世の作品について

まず小説をみると第一に挙げられるのは藤田晃である。藤田は多作で、創刊号から第8号まで休みなく執筆を続けている。第15号から20号までのブランクは、彼が腎臓移植を受けて病床にあったためである。彼はガーデナをした後、結婚してモーテルを経営していたが、その不規則な生活のため健康を害し腎臓の透析が必要になった。1972年の秋、腎臓移植手術を受けたところ成功した。薬の副作用に苦しみつつも病気を克服し、第21号から第35号までほとんど休むことなく創作を発表している。病におかされながら書き続けることは、健康な人の何倍もの努力を要したであろう。ここに彼の不屈の作家魂をみることができる。

創刊号の「向日葵の追憶」をはじめ大部分の小説は、彼が父と暮したカリフォルニア州インペリアル・ヴァレーの農業地帯を舞台にしている。日系文学では自伝的小説が多いが、藤田の作品は自分の経験を書いているにもかかわらず、時間の経過を追うのではなく、静止した時間のなかで農家の生活を描いている。とくに第26号の「ミュールを埋める」から第32号の「真夏の眩惑」までの7つの作品は連作になっており、1940年代のインペリアル・ヴァレーで、長い間父と離れて暮したのち帰米した息子と父の避けがたい違和感を中心に貧しい日系自作農の日常がテーマである。

これらはいずれも優れた作品で、藤田は日系人の日本語の創作を文学の域まで高めた最初の作家ということができる。1982年、藤田はこれら7篇を『農地の光景』(れんが書房新社)として日本で出版した。日本の出版界では地味な存在であったが、いくつかの雑誌や新聞に書評が掲載された。『サンデー毎日』の書評では、藤田の小説は現代日本の小説と比較するとストイックであって、「こんなところに戦前の日本文学の感性が残っているように思われて、著者の経歴と戦後の日本を思いあわせると、甚だ興味深い」と書かれている(『サンデー毎日』1982年10月17日号、評者 椎野静生)。

2年後の84年、藤田は『農地の光景』の続編として『立退きの季節』(平凡社)を出版した。これには第8号の「検束」、第24号の「亀裂」が含まれている。主人公の父はFBIに検束されてミズーラ抑留所へ送られ、主人公はポストン収容所へ送られる。この本ではポストン収容所での日常が描かれ、忠誠登録を拒否した主人公がトゥーリレイク隔離収容所送りになることを暗示して終わっている。

藤田は帰米してからの自分の生活を3部作としてまとめる構想をもっていた。第3部は第13号、14号に掲載された「帰還の季節」上・下を中心にまとめられる予定であった。「帰還の季節」は1946年、閉鎖される直前のトゥーリレイクからクリスタル・シティ抑留所へ送られたのちに釈放されるまでの生活を描いている。ここでは彼の友人たちが実名で登場し、藤田の経験そのものが克明に記録されている。その後、彼がいかに生活を再建していくかが描かれて3部作が完結するはずであった。つまり戦前から戦中、戦後にわたる帰米二世の生活記としてその心の軌跡が明らかにされると期待されたが、藤田の健康状態が悪化したため断念せざるをえなかった。

藤田は『南加文藝』創刊から終刊までに24篇を書いている。彼が『怒濤』に短編を書き始めたときの作品と比べると、テーマのとらえ方にも創作の技術にも天と地ほどの差がある。彼が文学としての評価に耐えうる作品を書くためにいかに努力したかが明らかである。

山城正雄は、長編小説「移民時代」を創刊号から第8号まで連載している。これはカワイ島低地のラワイ・ステーブルという名の砂糖黍プランテーションを舞台に繰り広げられる日本人移民の生活である。錦衣帰郷を夢見て日本からやってくる人びと、事業を興そうと倹約して貯金をする「辛抱人」、写真結婚の女性、移民地で育つ子供たちなどさまざまな人間模様の中に、食べ物や生活様式などが詳細に描かれて現地の生活の匂いが伝わってくる。山城の両親は沖縄からカワイ島への移民であったから、たぶんこれは彼の幼いころの経験をもとにした創作であろう。読む者を惹きつける興味深い作品であったが、第8号を最後に山城夫妻が、意見の相違から『南加文藝』を去ったために未完で終わった。彼はこの後『羅府新報』に設けられた、「子豚買いに」というコラムに創作の拠点を移したが、ついに「移民時代」は完成をみなかった。他人と安易に妥協しないところが山城の長所であり短所でもあるが、この小説が未完のままであることは残念である。彼が鋭い洞察力と感性をもつだけに、もし『南加文藝』同人にとどまっていれば、小説家としての道を歩んだのではないかと惜しまれる。

続く>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

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About this series

Many Japanese-language magazines for Japanese Americans were lost during the chaotic times of war and the postwar period, and were discarded because their successors could not understand Japanese. In this column, we will introduce annotations of magazines included in the collection of Japanese-American literary magazines, such as "Shukaku," a magazine that was called a phantom magazine because only the name was known and the actual magazine could not be found, as well as internment camp magazines that were missing from American records because they were Japanese-language magazines, and literary magazines that were also included by postwar immigrants.

All of these valuable literary magazines are not stored in libraries or elsewhere, but were borrowed from private collections and were completed with the cooperation of many Japanese-American writers.

*Reprinted from Shinoda Satae and Yamamoto Iwao, Studies on Japanese American Literary Magazines: Focusing on Japanese Language Magazines (Fuji Publishing, 1998).

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About the Author

Professor at the Faculty of Humanities, Tokyo Kasei University. Graduated from the Graduate School of Japan Women's University. Specializes in Japanese-American history and literature. Major works: Co-edited and authored "Collection of Japanese American Literary Magazines," co-authored "Japanese Culture in North and South America" ​​(Jinbun Shoin, 2007), co-translated "Japanese-Americans and Globalization" (Jinbun Shoin, 2006), co-translated "Yuri Kochiyama Memoirs" (Sairyusha, 2010), and others.

(Updated February 2011)

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