https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1368/
ハワイ出身のウクレレ奏者(1934年生)
[演奏]
(英語)私たちはラジオ放送局でレコーディングをしました。ポータブルのアンペックステープレコーダー、2トラックのもので。間違えてしまったら、初めから全てやり直さなければなりませんでした。それで私たちは「クールタッチ」というアルバムを1日で仕上げました。1、2曲以外は全て日本語の曲を録音しました。
そして灰田氏が書いたこの曲は鈴懸の径(すずかけのみち)と呼ばれていましたが、私は『Sushi』と呼びました。そしてこれが二週間でハワイナンバーワンヒットとなったのです。
ディック・クラーク。彼と、ロイド・サクストン。二人はレコードで一緒に演奏をしました。子どもたちはそれに合わせて踊っていました。私は働いてさえもおらず、ただTVを・見ていただけでした。職にも就いていなかったのです。ハワイで働くためには、あの曲を弾くことはできませんでした。なぜならホテルのマネージャーは皆、他の種類の音楽ではなく、ハワイアン音楽だけを演奏するように厳しく要求するのです。だから私はモアナホテルで、トリオで、日没の時間帯に演奏をしました。それがワイキキでの最初の仕事でした。ロイド・サクストンがステージに上がって言いました。「あなたがオオタさん?」「はい」と答えると、「『Sushi』を演奏してくれるかい?」と言う。私は彼を見て、彼が誰なのかは知っていたけど、「その曲は弾けないんだ」と言いました。ははは。
こんな感じです。覚えていないけど。ははは。
日付: 2012年8月
場所: 米国、ハワイ州
インタビュアー: ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
78歳。日本、そして世界中のウクレレファンに“Ohta-san(オオタさん)”として知られている。オオタさんはウクレレの名奏者で、ホノルルで第二次世界大戦以前に母親から演奏の仕方を教わる。1960、70年代にウクレレを世に広め、ハワイアン音楽だけでなくインターナショナルなポップやジャズにまでそのレパートリーを広げた。インタビューの中で、オオタさんのキャリアにとって重要であった曲の抜粋を演奏し、そのスタイルの発展をありありと見せてくれる。(2014年6月)
第2次大戦後の人々の変化(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
桑港囃子 - 一世の人たちへ捧げる
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)
アメリカでの初めての太鼓パフォーマンス
太鼓奏者。南カリフォルニアで5つの太鼓グループを結成(1949-2019年)
日本文化の伝統としての太鼓の音
太鼓コンテストを通して育まれるグループとしてのアイデンティティ
真珠湾攻撃の後の救急ステーションでの仕事(英語)
太鼓リズムの変化-日本的なもからアフロ・キューバンへ(英語)
ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。
緊那羅太鼓との出会い(英語)
太鼓とはっぴ(英語)
伝統的太鼓スタイル(英語)
和太鼓へのアメリカの影響(英語)
アーティストとしての役割(英語)
ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)
環境を反映する太鼓音楽(英語)
伝統的音楽「雅楽」を演奏することによって形成されたアイデンティティ(英語)
自己表現としての太鼓(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督