ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/576/

映画制作で行った小細工(英語)

(英語) (映画製作会社の人達は)収容所での経験についてまるで何も知りませんでした。驚くほど無知でしたよ。三船敏郎を起用したいとか、しまいには「ねえ、その人たち(収容所にいた人たち)英語は話せるの?」なんて聞く始末で、そのぐらい無知だったんです。だから、主演はもちろん白人にしようとなるわけなんですよ。それでルー・フリッゼル(俳優)を主演として起用しようということになり、その相手役としてグレッチェン・コルベット(女優)が選ばれたわけです。確かに彼女(の演技)は素晴らしかったと思います。でもこうやって白人女性を入れなくてはならず、ラブ・ストーリーにつくり変えられてしまったんですからね。

もちろん(映画製作にこぎつける)第一歩を踏み出すためには、ある程度のことはしなくてはならなりませんでした。そこでジョン(監督)がしたことは、これがすごく賢しいんですよ、(脚本を2バージョン作り)ひとつを制作会社に見せ、別のもうひとつを実際の制作用に使ったんですね。結局(制作会社は)その違いにすら気がつきませんでしたよ。(製作用の脚本では)主演(の白人の役割)を大幅に削ってしまったんですけどね。


カリフォルニア州 強制収容所 差別 マンザナールよさらば(映画)(書籍) 対人関係 マンザナー強制収容所 映画 (movies) 人種差別 アメリカ合衆国 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2005年12月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジーン・ワカツキ・ヒューストンは『マンザナールよ、さらば-強制収容された日系少女の心の記録(Farewell to Manzanar)』(1975年、現代史出版社)の共著者としてよく知られています。1934年、カリフォルニア州イングルウッドに10人兄弟の末っ子として生まれました。幼少時代は南カリフォルニアで過ごしていましたが、1942年、7歳にして家族とともにカリフォルニア州マンザナーにある強制収容所へ収監されました。

ワカツキ一家は1945年に南カリフォルニアへ戻り、1952年にはサンノゼへ転居しました。その後、彼女はサンノゼ州立大学へ進学し、社会学とジャーナリズムを専攻しました。卒業後、数年間カリフォルニア州で働いた後、パリへ留学し書法を学びました。また、1957年にはサンノゼ州立大学で知り合ったジェームス・D・ヒューストンと結婚。以後、3人の子供をもうけます。

1971年、マンザナーで生まれた甥に収容所の体験について尋ねられました。彼は両親に同じことを尋ねたのですが、話してくれなかったそうです。ヒューストン氏は甥にかいつまんで伝えるため、自らの体験談を書き記すことにしました。夫とともにFarewell to Manzanarを書きあげました。1972年に出版されたこの本は、彼女だけでなく彼女の家族の戦前、戦中、戦後の体験を書き記してあります。現在では、多くのアメリカの学校で日系アメリカ人の収容所体験を教えるための教材のひとつとして使われています。また、この本は1976年にテレビ映画化されており、ヒューマニタス賞を受賞。エミー賞のドラマ部門脚本賞にもノミネートされました。

Farewell to Manzanar以来、ジーンは夫とともに作家活動を続けています。2003年には、初の小説The Legend of Fire Horse Womenを発表しました。さらに、大学やコミュニティ機関で数々の講演を行っています。2006年には彼女の社会への貢献が認められ、全米日系人博物館より賞が送られました。(2006年11月25日)

Tom Yuki
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トム・ユキ

友好的だった戦後カリフォルニア州ロス・ガトス(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

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Mitsuru "Mits"  Kataoka
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ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ロードアイランドで直面した住宅差別(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

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Mia Yamamoto
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ミア・ヤマモト

キャンプから戻った後のメキシコ文化の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

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Roger Shimomura
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ロジャー・シモムラ

カンザスの農夫との会話(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

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Fujima Kansuma
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藤間勘須磨

日本ではアメリカ人として、アメリカでは日本人として踊る (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

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Fred Y. Hoshiyama
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フレッド・Y・ホシヤマ

サンフランシスコでの差別 (英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)

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Roger Shimomura
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ロジャー・シモムラ

人種的ステレオタイプを描いた作品の与える影響(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

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Frank Yamasaki
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フランク・ヤマサキ

公共プールでの差別経験(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

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Jack Herzig
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ジャック・ハージック

人種ゆえにより説得力を持った証言(英語)

元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)

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Margaret Oda
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マーガレット・オダ

教育界における女性差別(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

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Mitsuru "Mits"  Kataoka
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ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ハートマウンテンで“ジャップ”と呼ばれることの意味を知る(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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Yuri Kochiyama
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ユリ・コチヤマ

真珠湾攻撃の日(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

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James Hirabayashi
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ジェームス・ヒラバヤシ

家族に恥をかかせないように (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

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James Hirabayashi
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ジェームス・ヒラバヤシ

中東での過去と現在の関係 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

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