ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1762/

クリスタルシティの子供向けアクティビティ

友達と遊んだのを覚えているよ。外へ出てトカゲを集めたり、小川で小魚や小魚を捕まえたり、そういうことをしたのを覚えているよ。木登りもしたし、もちろん泳ぎに行ったりもした。泳ぎ方は自分で覚えたんだ。泳ぐのは得意だったから、ただ泳ぎに行っただけさ。そして、もちろん、2人が溺死したって知ったんだよね?でも泳ぐのは楽しかった。泳いだ後は歩いて家に帰った。大きな果樹園で、グレープフルーツが育っていて、そこに行ってグレープフルーツを自分で取ったのを覚えているよ。あちこちにサトウキビがたくさん生えていて、ああ、それはおいしかった。歩いて帰る途中、ほとんど機会があればそれを食べに行ったものだ。

剣道の稽古を見に行ったのを覚えています。私たちが朝通っていた学校があり、みんなで庭に並んで、日本でやっているように運動をしていました。それから映画の夜もありました。夜には屋外で映画が上映され、私たちは食べ物を持ち寄って映画を楽しみました。


クリスタルシティ収容所 司法省管轄の抑留所 日系ペルー人 映画 (movies) スポーツ 水泳 テキサス アメリカ合衆国 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2019年9月20日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジョージ・カズハル・ナガヌマは、1938年にペルーのリマで一世の両親のもとに生まれました。第二次世界大戦中、家族は船に乗らざるを得ず、テキサス州クリスタルシティに収容されました。戦争が終わった後も、彼らは行くところもなくそこに留まりました。カリフォルニア州サンフランシスコの牧師の援助により、彼らは脱出することができ、そこで仕事と住居を見つけることができました。ジョージはサンフランシスコでボーイスカウトに参加し、部隊とともに日本を訪問することができました。彼はアメリカ陸軍に入隊し、事務タイピストとして働きました。 (2020年6月)

マリオン・ツタカワ・カネモト

第2次大戦中の日本での苦難(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

藤間勘須磨

戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

フレッド・ササキ

第二次大戦中の排日感情(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

児玉良一

戦時中に取り上げられた運転手としての仕事

笠戸丸移民

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

MISで出会った本土からの日系人(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

当時の収容所に対する認識(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フレッド・コレマツ

犯人探し (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

フレッド・コレマツ

最終判決 (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

マコ・ナカガワ

真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜査 (英語)

教師(1937-2021年)