ディスカバー・ニッケイ

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原爆投下直後(英語)

(英語)何も覚えていません。閃光も見ていないし、爆破音も聞いていません。爆発後どのくらいの時間が経過していたかは定かではありませんが、覚えているのは意識が戻ったことだけです。その時私は大量の瓦礫の下敷きになっていました。私の上に全て落ちてきていましたが、何分か意識を失っていただけで怪我はありませんでした。

私は自力で抜け出すことができました。周りの物からしだいに煙が上がり、燃え始めていました。私はそこから抜け出して庭の方へ向かいました。その頃までにケニーは門の外から庭に戻っていましたが、小さい放射線やけどを負っていました。おでこに丸いやけどができていたのです。明らかに放射線が当たっていて、頭部に小さな放射線やけどができていました。でも重傷には至りませんでした。

一方祖母は、原爆が爆発した時窓の前にいました。割れたガラスが祖母の体に突き刺さりました。何十もの小さなガラス片が祖母の体に食い込み、大量に出血しました。でも致命傷にはならず、自分で動くことができました。自力で起き上がることができました。祖父は、祖母を救出できるくらいの状態ではあったので、2、3人の男性と一緒に祖母を助けました。そんな訳で、祖父も無事でした。

その頃までには辺り一面が燃え始めていました。私たちの小さな近隣地域の建物は、視界に入る限り全て燃えていました。それで私の祖父は、何人かの男性と一緒に消火してみると言いました。家には汲み上げポンプがあり、祖父たちは水を汲んで火にかけ始めました。しかし被害の規模に気づいていませんでした。町全体が炎に包まれていたのです。祖父たちがやっていたことが何であれ、役に立たなかったことは確かです。それから祖父は祖母に、子供たち、つまり私たちを連れて町を離れ、火が出ていない山に向かうように言いました。祖母は私たちの手を引き、近くに道の通っている川に向かって歩きました。


原爆 被爆者 ヒバクシャ 広島市 広島県 日本 第二次世界大戦

日付: 2019年9月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 三木 昌子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。

第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。

ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)

ホリー・J・フジエ

日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ホリー・J・フジエ

祖父がFBIに連行された後隣人の世話になった母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士