ディスカバー・ニッケイ

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家宅捜査中は英語を話すようにとFBI捜査官に命じられた母(英語)

(英語)3人目の捜査官が家の中を捜索し、ものを倒していきました。キッチンを調べていた時、ガシャガシャと音がするのが聞こえました。食器を全てぶちまけ、食器棚の中を調べていたのです。写真の入った額縁を壁からはぎ取って裏側を切り開き、床に敷いていた敷物を巻き上げました。彼らが何を探していたのかは分かりませんが、家の中を徹底的に調べていました。私たちは困惑していたと思います。完全にあっけにとられて座っていました。「この人たちは私たちの家で何を探しているんだろう」と思いました。

彼らが帰ったのは数時間後でした。それまでに母は教会から戻っていました。母は正面玄関から家に入りましたが、鍵を忘れて呼び鈴を鳴らしました。家の中に入ると、「一体どうしたの?」と日本語で言いました。すると捜査官が、「日本語で話すな!英語で話せ!」と言いました。当時の母は当然モノリンガル(単一言語話者)でした。母は私たちと一緒に座るよう命じられましたが、「何?この人たちは誰?」、「何の用なの?」と言いました。母は日本語で話していたので、捜査官に黙れと言われました。「日本語で話すな。英語で話せ」と言うので、私たちは黙りました。とても長い時間、じっと静かに座っていました。


捜索と押収 第二次世界大戦

日付: 2018年8月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: シャーロン・ヤマト

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1923年、母親の里帰り中に日本で生まれる。ワシントン州シアトルで育ち、第二次世界大戦開戦後、アイダホ州のミニドカ強制収容所に収容される。クエーカー教徒のボランティアに助けられ、オハイオ州シンシナティの仕事を得て収容所を出る。シンシナティ大学を経てニューヨーク大学で文学士を取得後、シカゴ大学で文学修士号を取得する。

移民国籍法が通過した後米国に帰化し、1955年に米国籍を取得した。

幼少期から詩を書き続け、1976年に『ミニドカ』、『収容所ノート』、『その他の詩』の作品を収録した最初の本を出版した。39歳の時に健康上の不安を乗り越えて教師として働き始め、その後多くの本を出版した。

カリフォルニア州アーバインで人権擁護グループの設立を支援し、その結果1980年代にアムネスティ・インターナショナル理事会メンバーに選出された。その後多くの人権擁護活動に積極的に参加し、特に女性の人権擁護活動で知られるようになった。(2018年8月)

ホリー・J・フジエ

祖父がFBIに連行された後隣人の世話になった母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ハワード・カキタ

原爆投下直後(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

不運だった親戚たち(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

核兵器についての考え(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士