ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1603/

初めて来たときのアメリカの印象

アメリカに来たのが、1969年の5月の中頃に来ました。その当時はええ、そうですね、世界をなんでも見てやろうという時代で、ヒッピー時代で、自分も大学3年の時に2年間ぐらい、まあ、世界を見てやろうと思って一応ロサンゼルスに来て1年半いて、それから南太平洋、オーストラリア半年ぐらいいて、2年後に日本に帰って。でも既にその時には目から鱗で、もう日本とは違うカルチャーを知っちゃって、すぐにまたお金を貯めてアメリカに、ロサンゼルスに戻ってきました。

360円の時代で、ほんとにもう見るものすべてがびっくりして、ラルフスとかああいうマーケットに行ったらにおいだけでも興奮して、凄いなあっていうのを感じ、もう一番しましたね。で、僕の場合は観光ビザで来て、まあ、あの当時はビザの件そんなにうるさくなかったんですけど、また戻ってきたいっていうような感じで、日本にいったん帰ってまたお金を貯めて、ぶらじる丸って船に乗ってまた来ました。


カリフォルニア州 世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 ロサンゼルス 移住 (migration) 戦後 新一世 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2015年8月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津重

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1969年にアメリカへ初めて入国。1年半、ロサンゼルスで生活した後、半年ほど世界各地を訪問し、日本へ帰国するが、海外の生活に感銘を受け、その後再びアメリカへ戻ることを決意し、観光ビザでアメリカへ渡米。渡米当初は、庭師のヘルパーなどを2年ほどしていたが、その後独立し、正規のビザを取り、飲食業を始める。現在は、カリフォルニア州オレンジ郡とロサンゼルスを中心に居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」を経営している。(2018年8月)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

渡伯初期の生活

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

エミ・笠松

大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

パラグアイの最初の日本人移住地 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

松原由美

両親に内緒で渡米

岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。

ヘンリー・シミズ

祖母に説得されて帰加した母 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ベナンシオ・シンキ

アメリカ大陸へ (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

児玉良一

世界を見るためにブラジルへ

笠戸丸移民

児玉良一

ブラジルへ来る船の中で

笠戸丸移民

児玉良一

日本人初の運転手

笠戸丸移民

サカエ・シゲカワ

地域によって違った差別の状況 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)