https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1352/
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
(英語)姉は白血病になり、入院しなければなりませんでした。亡くなるまでには、長い時間がありました。
病院は収容所の完全な外にあり、フェンスや監視を通り抜けていかねばなりませんでした。だから訪れることができなかったのです。思い起こせば、母はいつもそこにいました。そして父もほとんどそこにいました。そのため私たちは子どもだけで過ごすことが多かったです。それは私よりも妹に影響を与えました。妹には母がいなかったわけですから。彼女はそれを姉のせいにしました。嫉妬というか、競争のようなものだと思います。
ともあれ、姉はしばらくの間病院にいました。彼らが姉の死を伸ばすためにやったことは二つあります。まず輸血です。その棟にいるほぼ全員が輸血しました。そして、教会は姉のために祈ってくれました。そういう話でした。母は、姉がそこまで苦しんでいるとは思わないから祈りはしないと言いましたけど。
母は、(姉の死から)立ち直ることはありませんでした。そう確信しています。父は本当にタフな人間でした。自らがどんな状況にいるかを知っていたのです。それを全く表に出さなかった。自分の威厳や強さが崩れないように保っていたのです。そして、今は進み続けなければならない、と言い続けました。「頑張って」と。父は自分が家族を立て直すことができない、一緒に保つことができないという状態にはありませんでしたが、家族を守ったのです。父は非常に動揺し、怒っていましたが、それを見せることはありませんでした。日本の風習に従わねばならなかったのでしょう。父は自分をしっかり保つために、日本人にならなければならなかったのです。
姉は亡くなった際、火葬しました。多くの人々が埋葬をされたのを知っていましたが、以前姉が、死んだ人たちは廃品置き場に埋められていると言っていたからです。墓標のないお墓ですね。かつてドイツで犠牲者がそうされたような。
日付: 2012年6月29日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)
父の犠牲(英語)
日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)
日本で育ったこと(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
結婚50周年を迎えて(英語)
日系アメリカ人弁護士・公民権運動アクティビスト(1938-2020年)
強制収容、国外追放、弁護士 (英語)
父と玉(英語)
アメリカ生活の始まり(英語)
新一世実業家 (1927-2016年)
アメリカで直面した偏見
溶接業を営む新一世(1936年生)
父の影響(英語)
俳優、活動家(1937年生)
ジョージの母とブラッド(英語)
両親(英語)
第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)
楽天的だった父(英語)
タンフォラン集合センター(英語)
トパーズでブローチを作る父(英語)
娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意
妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった
クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)