ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1353/

初めての映画(英語)

(英語)私がアニメを本当に好きになるきっかけとなったのは、収容所で初めて見た映画、「白雪姫」でした。チケットが10セントで買えるので、あった貯金を全て使いました。兄とふたりで食堂で買ったのです。彼らはチケットを売っていたんですよ。でも、カラー映画の見られる映画館はひとつしかなく、ずっと歩いて行かなければなりませんでした。ほとんど町の向こう側にあり、16ミリで長編映画を上映しているところでした。

私たちはチケットを買い、映画館に行きました。そして、私は行く途中でチケットを失くしてしまったのです。私は泣き、兄は「俺は行くからお前は家に帰りな」と言いました。なので家に向かいましたが、本当のところ、来た道を調べてたんです。歩いて戻ってるとき、地面に落ちているチケットを見つけました。ポケットから紙かハンカチか何かを取り出したのを覚えていて、チケットはそこに落ちていました。急いで戻り、上映時間にちょうど間に合って、「白雪姫」を見ました。そして、こんな素晴らしいものは見たことがない、と思い、アニメーターになりたい、と思ったのです。


映画 (films) 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2012年6月29日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)

ジェームス・ヒラバヤシ

10代での収容所生活 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ユリ・コチヤマ

隠蔽されたキャンプでの出来事(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

収容所のポジティブな側面(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

アーチ・ミヤタケ

父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)

写真家・ビジネスマン。

竹下幸男

JACLとの関わり(英語)

「アメリカ生まれの日本人」・元ビジネスマン。(1935年生)

グレース・ウエハラ

収容所の補償運動の達成と教育(英語)

(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。

ワカコ・ヤマウチ

真珠湾攻撃後のカリフォルニア州オーシャンサイドでの日系アメリカ人学生としての経験(英語)

アーティスト・劇作家。(1924 - 2018年)

ロイ・H・マツモト

アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

リチャード・コサキ

収容所への442連隊の兵士の訪問(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

ロジャー・シモムラ

戦中の体験を尋ねたときの父の否定的反応(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

フランク・ヤマサキ

徴兵拒否の決意(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

パット・アダチ

スロカン日系カナダ人収容所での家族生活(英語)

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

ポール・テラサキ

年代による収容所に対する印象の違い(英語)

組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)