ディスカバー・ニッケイ

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「アメリカ人」として成長 (英語)

(英語)学校に通い始めると、私はもうアメリカ人でした。国旗に対する忠誠を誓いましたし、完全にアメリカ人でした。明らかな日本人らしさというのは、主に父親側にありました。私たちはよくサンノゼにある教会に行きました。それが私たちの信仰でした。たとえ孤立したコミュニティの中で農場を経営していたとしても、私たちはアメリカ人でした。私は小学校で友人を作りましたが、何かを一緒にやるというようなことはありませんでした。私はいつも働いていましたから。

でも、サクラメントにいたときは別でした。自分が唯一アメリカ人でないと感じる時は、サクラメントに行った時でした。偏見や差別がたくさんありました。本当に甚だしく、奇妙だと当時感じました。同じ地で生まれたのに、変だと思いました。私はアメリカ人のように見えなかったので、自分が異なっていることは知っていました。しかし、そのコミュニティに混ざってしまえば、受け入れられたように感じるでしょう。黒人やメキシコ人のコミュニティなど色々ありましたから。しかし、私たちは突然完全な異邦人になってしまいました。外国人だったのです。


アメリカ人 アイデンティティ

日付: 2012年6月29日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

フランク・ヤマサキ

人類全体への思いやり(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)

演歌歌手(1981年生)

藤間勘須磨

日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ケニー・エンドウ

ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)

和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)

ビンス・オオタ

東海岸とロサンゼルスの違い(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

田中誠一

アメリカの太鼓と日本の太鼓の違い(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

フランク・ソギ

MISで出会った本土からの日系人(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

エンセン・井上

日本社会への突然の受け入れ(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)