ディスカバー・ニッケイ

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フジモリ元大統領の夜食を配達

フジモリさんはね、彼はね、いろんなこと言われてるけど、ものすごく仕事する人なのね。それでね、おそらく2時間か3時間しか寝ない人。それで、僕がシェラトンに店持ってた頃、大統領官邸が近かったので、実はダイレクトの電話を持ってました。彼から電話がかかってきて「今日は3時まで仕事します。」で、「2時ぐらいに食べたい」って言う、ま、電話がかかってくると、要するに彼はだから、おいしいもの食いたいとか言わないわけね。要するに「あ、これは今日はじゃあ、おかゆみたいなものにしようとかな」と。うん。決して、贅沢なこと言わない人でね。ただ、彼の場合、体調崩したくないということで、必ず僕のほうに電話があったわけだけど。

もう一つはね、彼はね、えらかったのはね、何かあると大統領官邸に僕も呼んでもらったんですけどね。取りあえず、要するに、料理を作ったり、指導したりするのにね。昔はね、大統領官邸っていうのはね、ABCっていうね、ランクがあってね、大統領たちが食べる上の人が食べる料理、それから真ん中の佐官クラスが食べる、それから下の一兵卒が食べる料理、3つに分かれてた。それをフジモリさんは、無駄だって言って、それを全部廃止して、一番下の料理にしたと。これ、えらい人なんですよだから。

だから、我々はだから、そういった意味では、秘書官から電話がかかってくるんじゃなくて、大統領から直接電話で話したのね。それで、できましたって言ったら、パトカーが来て、で、パトカーで持っていくんだけど、その時、必ずね、皿に封印をして、毒一服もらったんじゃ、これかないませんからね。必ずそうやって、持っていくと。ま、これが毎日じゃないですよ。彼はペルー料理も好きですからね。うん。


アルベルト・フジモリ 食品 ペルー

日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1953年7月11日、宮崎県西都市の老舗和食料理屋の4代目の息子として生まれる。6歳のころからレストランの厨房で遊んでいた小西氏は、11歳の時修業のため他の料理人候補たちと共に厨房の手伝いをするようになる。その後、16歳で上京し、1971年に料理屋「ふみ」のシェフになる。

1974年、アメリカや日本などで和食創作料理で知られている「NOBU」のオーナー松久信幸と共にペルーへ移住。「Matsuei」という和食レストランで10年間シェフを勤めた後、リマ市内のシェラトンホテルで「Wako」と「Toshiro’s」を開店。2002年には、サンイシドロ地区にある「Sushi Bar Toshiro’s」のマネージャーも勤めるようになる。

レストラン経営の傍ら、San Ignacio de Loyola大学でも教鞭を執っったり、世界各国の料理フェスティバルへも参加し、創作料理「ペルービアン・フュージョ ン」(日本とペルーの創作融合料理)を紹介し、数々の表彰を受ける。2008年には、ラテンアメリカに定住している日本人シェフでは始めて、日本政府より農林水産大臣表彰を受賞した。(2009年10月)

ミシェル・ヤマシロ

沖縄系アメリカ人(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

ペルー系沖縄人としての両親のアイデンティティ(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

本州の人々の沖縄人に対する偏見(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

ペルーでの子供時代の思い出(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)