ディスカバー・ニッケイ

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故天野芳太郎氏との思い出

天野さんはね、もうとにかく一言二言じゃ絶対語れないぐらい、もうすごい人でね。もう何がすごいかって言うと全部全てなの。やること、それから肝、いわゆる度胸ね。うん。それから頭のよさ、それから人間の優しさ。もう全て整ってる人なのね。だから、どういう人だったかって言われたって、なかなか困るんです、よね。 ただね、もう年取られてから、僕もものすごくこっち来てね、いい時期に来たなって思うのは、いろんな人に会ってるんだけど、天野さんにも存命中に会って、よく食事をご馳走なったりして、いろんな話を聞かせてもらった。これはものすごく僕のためになってるわけね。

でね、そのね、天野さんがね、御飯を食べたあと、もうちょうどあれは、脳溢血か脳卒中か知らないけど、ちょっともう、身体が不自由だったんですけどね。うん。あのー、ほんとはお酒を止められてたんだけど、奥さんの目を盗んでね、いわゆるポケットビンにピスコを入れてて、それをね、奥さんがね、ちょっとどっか外すとね、チチャモラダって言ってね、紫トウモロコシのジュースがあるんだけど、それに入れるわけです。ピスコをね。で、ぱっと飲んで、にこっと笑う。これがね、もうほんと子どもみたいな顔してんのね。だから、「あぁ、俺年取ったら、やっぱこういう人なりたいなぁ」と。うん。いろんなこと見てきた人なんだろうけどね。もう本当に純粋な人だったですね。うん。


日付: 2007年4月18日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: アン・カネコ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1953年7月11日、宮崎県西都市の老舗和食料理屋の4代目の息子として生まれる。6歳のころからレストランの厨房で遊んでいた小西氏は、11歳の時修業のため他の料理人候補たちと共に厨房の手伝いをするようになる。その後、16歳で上京し、1971年に料理屋「ふみ」のシェフになる。

1974年、アメリカや日本などで和食創作料理で知られている「NOBU」のオーナー松久信幸と共にペルーへ移住。「Matsuei」という和食レストランで10年間シェフを勤めた後、リマ市内のシェラトンホテルで「Wako」と「Toshiro’s」を開店。2002年には、サンイシドロ地区にある「Sushi Bar Toshiro’s」のマネージャーも勤めるようになる。

レストラン経営の傍ら、San Ignacio de Loyola大学でも教鞭を執っったり、世界各国の料理フェスティバルへも参加し、創作料理「ペルービアン・フュージョ ン」(日本とペルーの創作融合料理)を紹介し、数々の表彰を受ける。2008年には、ラテンアメリカに定住している日本人シェフでは始めて、日本政府より農林水産大臣表彰を受賞した。(2009年10月)