https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1040/
南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)
(英語) 私は、父はロングビーチの養豚牧場からまっすぐ家に戻って来ると思っていました。でも実際父は、戻りませんでした。父は刑務所に入れられたのです。その次の日には出所できたのですが、そこでの経験がつらいトラウマになったようです。父はその後、当時のことをほとんど語りませんでした。刑務所の中では、酔っぱらった人たちが、頭を殴られたり、ひどい扱いを受けていたそうです。でも、こんな話を父がしたのも1度きりで、その後一切その話をすることはありませんでした。この経験は、父の中にトラウマとなって強く残ったのだと思います。
でも、父の場合は、1日で刑務所を出ることができたのですが、他の多くの人たちは、特に、日系組織のリーダーや何か特権的な地位に居た人たちは、ひどいことに、もっと長く刑務所に入れられていたのです。そして家族は、父親の行方は何も知らされないままでした。
当時、よく言われていたのは、突然父親だけが引き離され、どこかわからないこところに連れて行かれることがあるから、コートや何か着るものは必ず持たせなさい、ということでした。そして父のことは、私にとってもトラウマとなりました。私も当時の経験を、しばらくの間話すことはできませんでしたし、誰も当時のことを語りませんでした。今では、強制収容の話はよく聞きますが、私にとっては、それ以前の経験の方が恐ろしかったのです。
日付: 2005年3月31日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: グウェン・ジェンセン
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
サヤカ・シゲカワ医師は、1913年1月6日、カリフォルニア州サウス・パサデナに生まれました。幼少期に両肺肺炎を患った父を見舞った時に、医師や看護師と知り合い、自らも医師になることを決意します。シゲカワ医師は、南カリフォルニア大学(USC)医学部準備教育課程を経て、ストリッチ・ロヨラ・メディカルスクールに入学しました。シゲカワ医師は、入学した女子医学生4名の中の1人でした。教授や同僚による性差別に負けず、学業に勤しんだシゲカワ医師は、卒業後ロサンゼルスで医師として働き始めました。 しかしながら、1942年3月1日、シゲカワ医師は、旧競馬場だったサンタ・アニタ強制収容所へ初期の収容者の1人として収容されました。ノーマン・コバヤシ医師とフレッド・フジカワ医師による誘いを受けて、シゲカワ医師は収容所内で患者の治療を始めました。シゲカワ医師は、強制収容されたことが苦痛となり、精神的に落ち込んでいましたが、医療に従事することで救われたのです。当初、彼女に許されたのは皮膚の治療だけでしたが、しばらくして、産科や他の医療にも携わるようになりました。 戦後、彼女は医師として働き続け、医院を開業し、現在も同じ場所で医師として働いています。産科医となった39年の間で、シゲカワ医師は2万人以上の赤ちゃんを取り上げ、その全ての母親の命も守りました。シゲカワ医師は、2013年10月18日、100歳で亡くなりました。(2020年4月)
「再び同じ行動をとるでしょう。」 (英語)
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
基本訓練 (英語)
第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
幹部候補生学校卒業後のジェローム訪問(英語)
アジア人皆のために(英語)
戦争のおぞましい光景(英語)
死にそうになった経験(英語)
ライダー大将の第100歩兵大隊への信頼(英語)
戦闘での居心地の良さ(英語)
原爆直後の広島から学んだ恐ろしさ
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
ルーズベルトが日本からの攻撃を望んでいたことを知って(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
FBIへの連行を予期していた両親(英語)
第525アメリカ陸軍需品科(英語)
フォート・マクラレンの兵士たち(英語)
収容所で姉を失くす(英語)
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
日系二世の医師が受けた差別 (英語)
一世医師の娘(1928-2016年)